中田英寿ブランド閉店セール

引退声明文のベースに村上龍の文体があるように見える。「俺」「俺」は「愛と幻想のファシズム」などで御馴染みだ。
中田本人が村上作品の愛読者であるし、現実にこの10年、コバンザメのように村上がくっついていたのだから、そりゃ影響も出るだろう。あるいは村上が直接文章指南、プロデュースしていたのかもしれない。
中田が世間デビューした瞬間を覚えている。
テレビを見ていたら「今、びっくりするようなニュースが飛び込んできました! ベルマーレ平塚中田英寿選手が世界選抜代表に選ばれました!」とキャスターが本当に素っ頓狂な声を出していた。1997年のことだ。それまでマスメディアの中心はカズであり、「中田」なんて言葉はマスメディアではほとんど流通していなかった。キャスターは本当に想定外の出来事にびっくり仰天していたのだ。ジョホールバルの歓喜が中田によってもたらされたのは明らかだったのに、相変わらずマスメディアはカズか中山だった。
マスメディアは目の前で起きていることを素直に見ようとしない。いかに保守的かを思い知らされた。この世界でも実際にこの保守の壁を突き崩したは「世界選抜」という外圧だった。
その後の中田の変わりようは、見物だった。純朴そうなサッカー青年から茶髪、サングラス、「無機質」な目付き、報道陣に対する「うざってえ」の連発。まるでマスコミの掌返しに掌返しで応酬しているかのようだった。
中田はその後、中田自身が「メディア」になってしまう。コバンザメ龍をはじめ、デザイナーら演出家がセレブランド資本価値を高めるためにまとわりつき、実際に高めた。
引退劇のあざとい演出は閉店セールのようなものだ。引退するかしないかはもはや選手として続けられるかどうかではなくセレブランドが持つかどうかで決まる。後は売り抜け演出だ。あのふて寝すら演出であったことは容易に想像がつく。
彼は選手として、1人でピッチにふてぶてしくふて寝するほどの成績を残していない。W杯10試合でわずか1得点。ヨーロッパでもほとんど控え。今にして思えばあの「世界選抜代表」選出もアジアに市場を広げようとしたFIFAや電通の仕掛けだったのかと思えてしまう。まるで日本のこの10年の「改革」の形式を体現し、旗振り役を演じさせられていたかのようなサッカー人生だった。
引退声明文は、はっきり言って凡庸で、何も感動を与えない。なんか背後にマーケティング的煽りの、いかにもイメージビルディングなものがぷんぷんし、サッカー選手の汗が感じられない。
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