「春の雪」と梯子外された大御心と英霊

大御心とは天皇の心という意味だ。私が読んだA級戦犯不快記事に関するブログで最も核心を突いたと思えるのは踊る新聞屋−。:「心」よりも「宿命」ではないのか−アメリカと昭和天皇とA級戦犯だ。
引用されている中山治「誇りを持って戦争から逃げろ!」(ちくま新書)を読むまでもなく、天皇家というのは究極の日和見主義のようなところがある。その「無原則」は正に日本の文化伝統でさえある。
それを「優雅」という言葉に昇華して「豊饒の海」で描いたのが三島由紀夫で、映画「春の雪」の主人公松枝清顕に投影されている。
原作では、

旗のように風のためだけに生きる。自分にとってただ一つの真実だと思われるもの、とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り、衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない『感情』のためだけに生きる

と表現されている。
しかし、旗のはためきのような、川の流れのような天皇制も、断層が生じ、川が滝のように落ちる時期があった。終戦だ。
その滝頭の間で股裂きにされたのが英霊である。
天皇のために死に、死んだら靖国で会おうと誓った(参照:靖国と「春の雪」)のに、天皇はもはや現人神でなくなった。この恨みを語らせたのが、「英霊の声」だ。

などてすめろぎはひととなりたまいし

は現人神から人間宣言(民主化への日和見)した昭和天皇への恨み節だ。
滝は優雅の崩壊が暗喩され、「豊饒の海」のキーワードになっており、映画「春の雪」でも冒頭に、滝に犬の死体が発見される印象的なシーンがある。そこで皇室と縁の深いご門跡が犬を弔うのだが、あれは天皇靖国参拝の隠喩だと思っている。三島が生きていた当時、まだ昭和天皇靖国参拝を続けておられた。
しかし、今、それすらかなわなくなった。
昭和天皇には、人間宣言してしまったことに後ろめたさがあったに相違ない。「松岡や白取(ママ)」までがというのには不快を通り越して怒気さえ含まれているように見える。股裂きに遭ったのは英霊だけではなく、昭和天皇も股裂きにされたとのだと思う。これは公の心というより私憤に近いのかもしれない。そうであるが故に生々しい。日和見の怒気ではないのだ。
もちろん、これは一つの物語化である。この物語に与しない英霊もいる。しかし、こうした物語がどんどん崩壊すると、ただの空漠だけしか残らないのも確かだ。
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