国益というマントラと靖国

内田樹の研究室:学習障害性ナショナリスト:『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいけば私は靖国参拝を支持する。 日本では、ある言葉がマスメディアに過度に流通するといつの間にやら、その言葉がイデオロギーとなり、スローガンとなり、マントラのように唱えられる。
戦後、イデオロギー化した言葉を挙げれば、その代表例は「平和」だろう。これは61年たった今なお持続するイデオロギーだ。極論すると、イデオロギー化した「平和」は「平和」のためなら犠牲者が出てもいいくらいのものだ。かつて自衛官の子弟が入学拒否されたこともあった。
「安保」も実際の日米安保条約とは無関係に唱えられたマントラだ。60年安保当時の西部邁全学連委員長は実は安保条約の条文すら読んだことがなかったと告白している。「アンポ、アンポのアンポンタン」と茶化したのは野坂昭如だ。
その後、時は一気に跳んで「ボーダレス」「競争原理」「改革」と、経済政策的マントラが流行する。そして今、行き着いたのが「国益」だ。
15日当日の朝のニュースショーで女性コメンテーターが「小泉さんは国益を考えて靖国に行かない方がいい」と言っているのを聞いて、この国の「知的レベル」はマッカーサー元帥が「日本は12歳の少年」と喩えた時以来、成熟していないんだ、と得心した次第だ。
国益が大切」と皆が合唱すると、国益の何たるかを考えもせずに、本能的に一番受け入れられそうな言葉として唱和すること。しかも脈絡も何もなく、持っていれば何にでも交換できる貨幣の如くに言葉を乱発する。
で、内田先生の発言。ズルイ。続きを読むと、

私が首相の参拝を支持しないのは、自らが下した重大な政治判断の適切性を有権者に説得する努力を示さないからである。
自らの政治判断の適切性を有権者に論理的に説明する意欲がない(あるいは能力がない)政治家を支持する習慣を私は持たない。

結論から言えば、小泉首相がどんなに意を尽くして説明しても内田先生が得心して靖国参拝を支持することは100%ないと断言する。何がズルイかと言えば、国益を客観的に計量することなど元より不可能である。経済の貸借対照表と訳が違う。それを知っているからこそ安心してこのようなことをアンケートに回答できるのだ。最初から不可能なことを条件にするのは卑怯でさえある。
それにしても、以下の文言はトンデモでさえある。

若い人たちナショナリズムに親和的になる理由の過半は、ナショナリストであることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ないからである。

言うまでもなく、ナショナリストであることと知的負荷とは100%なーーんのカンケイもない。人が、生まれたこの世界で生き抜こうとする意志と知的負荷とが関係ないように。
ならば「国益主義者」は知的負荷が高いのか。そんな根拠あるなら見つけてきて示してほしいものだ。
もちろん、内田先生は「ナショナリスト」をかなり意味を狭めて使用していることくらいは分かる。しかし、「ナショナリスト」であることと「ナショナリストのようにふるまう」ことを区別するのは案外難しい。「国益主義者であること」と「国益主義者のようにふるまうこと」を区別するのが難しいように。実は大抵の人は意識的にせよ無意識的にせよ「ふり」をして生きている。
ちなみに、知的負荷が大きいほど立派であるという思い込みが内田先生にはあるようだが、そうでもないぞ。負荷である以上、疲れる。コストをなるべく減らすべきなのは生きることにおいても経営においても変わりない。「ナショナリスト」だって、知的負荷に耐えて耐えて懊悩し、ふと気付いたら、もっとシンプルに振舞えばいいのだ、無駄なことと悟り、一皮剥けた人なのかもしれないしw

国益の正体見たり事なかれ主義

なんていう知的負荷の低い国益論だって巷に一杯溢れていることだし。
へえぇ〜ならClick⇒人気blogランキングブログランキング・にほんブログ村へ