二宮損得

自民党総裁選が告示され3候補がテレビ局を梯子していた。TBSニュース23で筑紫哲也さんが「戦後、損得以上の価値を作れなかった」と候補者にぶつけた。しかし、じゃあ損得以上の価値ってあるの? 私はないと思っている。少なくともこの世には。
これは教育問題で触れられたことだが、例によって少年による殺人の増加など昨今のトピックスを絡めての質問だ。筑紫さんによると、「衣食足りて礼節を知ると思っていたが、戦後60年経済重視の偏重で」云々カンヌンだ。
しかし、損得というのは金銭勘定だけでなく、人間の行動を規制する最大の価値基準だ。これは生命の防衛本能を起源としていて、自分を生き抜かせるものは得、そうでないものは損という、極めて単純明快なものだ。
少年殺人が損得価値偏重と関係あるかと言えばある。それは相手が損得勘定ばかりで人を見るから切れてしまうという意味において関係があるということだ。
実は少年殺人のほとんどはアンチテーゼとして損得を超えた価値に基づいているということではないだろうか。彼らの殺人はむしろ損得を超越している。
むしろ損得だけで殺人を平気でするのは大人の方が絶対に多いと思う。利得のためなら相手を平気で殺すのは、世間なれした大人の所業だ。けれどもこういった損得殺人はむしろ動機が理解しやすく、例の「心の闇」なるものも入る余地もないのでニュース価値がなくなってほとんど大きく取り扱われない。
損得抜きで何かをしでかす人間は、この世でかなり不幸な目に遭っているか、あるいはめちゃくちゃいい思いしてもはや損得抜きで考えることすら必要でなくなった人々かのどちらかだろう。
これは今に始まったことじゃなく二宮尊徳のような人がもてはやされたのは、世の中常に損得>>尊徳だったからだろう。
ちなみに競争社会を奨励するのは、損得を超えた価値と矛盾する。損得という価値基準があって初めて競争が成立する。見栄を張るのも含めて損得の価値基準だ。
しかしながら時価総額世界一を目指す人間は損得を価値基準においているのだろうか。おいていてしかし、それを超えようとしている。ホリエモンは損得を度外視して損得を求めるという奇妙な人間ではある。その時点で損得の価値基準が完結的価値でなくなり、手段としての価値基準になった。そこで完結せず、損得価値が暴走したということらしい。衣食足りて損得を忘れるが今の世だ。
一方で自殺者3万人は、損得の価値基準から欄外扱いされた人々なのだろう。自殺の動機の多くは損得勘定の価値基準の枠組みさえ喪失したことだ。
暴走した損得価値と損得価値から退場せざるを得なくなった人々。
これが格差社会の実態であり、そして言うまでもなく格差が問題にされるのは損得価値が重要視されているからにほからない。損得を超える価値が重要なのなら格差など問題にすべきでない。
損得価値基準が問題なのではない。むしろ、損得基準が紊乱されたからこその問題が毎日メディアを賑わしているというべきなのだ。
今必要なのは二宮損得のような公正で安定した損得価値を持つ人の出現であって、損得を超えた価値基準ではない。
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