フラット化した教育

livedoor ニュース:[安倍新総裁]教育改革は高校卒業後と大学入学までに5ヶ月間のボランティア(和製英語では奉仕活動)が骨子らしいが、H-Yamaguchi.net:教育改革は急務である、という話では、その対象は大人であり、教育改革の最重要現場は家庭であるという。
実は教育も、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人その他大人という階層は一応あるけれど、実は徐々にフラット化しているのじゃないかという話にならないか。
昔の家庭では、子供に教えるべき事と、教えてはならない事とが峻別されていて、教育内容の階層化が成立していた。例えば、父親が職場で何をして、どんな汚いことをやっているかという大人の世界の論理を家庭に持ち込んで子供に教えるというのは憚られていたように思う。そのようなことは成人になるにつれてなんとなく分かっていけばよい、ということだった。
ところが、テレビニュースのワイドショー化とネットの発達で大人の知恵も大人の汚さも、教えられなくても大人になる前から分かる人は分かるようになる。分かるだけでなく、我が物として活用するだろう。最近の少年犯罪で思うのは犯罪テクニックの高度化だ。
こうなると、家庭教育であろうが学校教育であろうが、どっちみち建前化する。教員や親がだらしなくなったのではなく、教員と生徒、親と子を区別する階層がなし崩し的に崩壊してきたのだ。フラット化した大人子供に対し、教員や親が戸惑うのは当然ではないか。ある意味、教員や親はいかにして子供に媚を売るか、子供に付いていこうとするかばかりのように見える。平和主義だから物理的教育もできないし、却って物理的反撃を受けかねない。
こうなれば特に教員もフラット化で武装して生徒を機械的に扱うしか手がないだろう。教員に情操などを教えようなどと露も考えず、生徒と仲良くしようなどと考えてはならない。そのような甘い考え持った途端に生徒になめられる。契約ビジネスのように自分のやりたいようにノルマを果たしつつ教えることを教えて後は知らんを決め込む。大人が大人子供になったことを自覚したことから出発する。
数ヶ月前だったか、名教師と評判だった人が、生徒に付いていけず、鬱病に罹って退職し、無職で困っているというテレビドキュメンタリーを見たことがある。その人は自己をフラット化出来ず、適応出来なかったのだ。
安倍政権がなすべきことは無理矢理「美しい日本人」を作ることではなく、フラット化した生徒に反撃力を持つハードボイルドなフラット化教員を育成することだろう。これは強権を伴うことだが、今の教員はあまりに無力に見える。少しくらい権力持って初めて優しさを与えられる。
親は学校に行く年齢になった子供を、従来の子供として受け止めるべきでない。程度の差はあれ、その子供は大人子供であり、謎の多い半分他人なのだとみなすしかない。家庭内でも会社的な、契約社会的な上司、部下の関係という要素がこれまでより多くなる。両者は契約において対等になってしまう。それが嫌なら携帯も取り上げ、学校にも行かせずヒキコモリさせるしかないような希ガス
もう「大人扱い」とか」子ども扱い」という言葉の階層もフラット化しつつあるのだ。
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