20世紀の3大遺物〜ノーベル賞、五輪、GDP

この3つに共通するのは、無限の成長への無邪気な信奉だ。知の無限の発達、成長、「より速く、より高く、より強く」のオリンピック、経済成長が無限の豊かさを保証するというGDP
オリンピックは1984年のユベロス・ロス五輪以来、ただの世界的イベント産業になってしまった。競われている主役は、スポーツ医学、最先端ユニフォーム素材、テレビ放映権であり、選手そのものは、そのテスト機材になってしまった。
もうオリンピックで感動しろと言われても、テレビの煽り以外の方法でしか感動はもたらせない。
ノーベル賞を取れば歴史に名を残せるというのは過去のことで、最近ではたった1日だけ覚えられ、翌日には忘れられる――というのが大半になってしまった。大体毎年1回というのに無理が有り過ぎる。もう科学はかなり前から低成長時代に突入している。で、受賞者はどんどん小粒になった。文学・芸術となると、とっくにリサイクル時代に突入している。
GDP。これも無限のリソースという有り得ない前提で築かれた神話だ。
だから、「これまで垂れ流されていた廃棄物をきちんと処理する技術をつくり、産業化することで経済は拡大する。見殺しにするしかなかった病人を治療し、回復させる仕事を作ることで経済は拡大する」山形浩生 の「経済のトリセツ」:経済成長は、ぼくたちの努力や成長の総和でしかない。というのは、かなりに成長神話の残滓のように思える。こういう技術革新は「経済圧縮」とでも言うべきもので、経済的メタボリズムを低下させる分、経済成長を圧縮される形で成長を阻む。
GDPは今後も重要な指標として重宝されるだろうが、もうかつてのノーベル賞、オリンピック同様、その輝きは失われている。
そして、それは良いことだ。
私は、「お金」というスカラー量では不十分だという仮説を立てている。(404 Blog Not Found:群盲成長をなでる
私は「お金」というスカラー量で十分だという仮説を立てている。必要十分ではないにしても、「お金」はどんなものにも憑依できるからだ。例えば、化石燃料起源の二酸化炭素。これだって、実は「お金」に換算するのではなく、「お金」そのものにできるのだ。二酸化炭素排出権のようなせこい話ではない。biosphereそのものを金融資産化することも可能なのだから。「お金」にはpositive moneyもnegative moneyも有り得るのだから。
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