いじめ殺される日本語

NHK「クローズアップ現代」11月8日:どうする 若者の“日本語力” 工場内に書かれている「差異」という言葉の意味が分からず、会社に損害を与えた社員。これに対し、「こうした日本語の力の低下に携帯電話やパソコンの使用が影響を与えていることが様々な研究で明らかになってきた。語彙力のない学生ほど携帯メールをよく使う傾向にあり、デジタル機器ばかり使っていると脳は部分的にしか動かず様々な部位の連携が必要な読み書きの力が養われない可能性があることがわかってきたのだ」という。しかし、これは本当なのか?
漢字が書けなくなる、というのは分かる。手書きの習慣がなくなると、どうしてもそうなる。しかし、携帯にしても、これ漢字変換機能があるし、パソコンには百科事典も辞書もある。ボキャ貧になるとは思えない。
テレビでは、携帯のチャット的使用ばかりに焦点を当てていたが、そういう人達は携帯がなかった時代だって長電話のダベリやっていたはずだ。
ましてや携帯で文字を入力だけでは手書きに比べて脳の活動が格段に弱まる⇒思考力低下とは、どんなものか。当たり前で、日本語力の低下と結びつけるのは、ゲーム脳同様、はてなマークだ。
戦前の人は、今の大人世代よりはるかに「日本語力」があったろう。それはメディア媒体が活字が主流だからだったろうが、同時に情報の量も少なく、流れも格段に緩く、その分、仔細な表現力をする余裕があったのではなかろうか。
今はもうコミュニケーションと言っても、超スピードで、誤字脱字、誤解などかまってられないというのが現実なのではないだろうか。
カタカナ言葉の乱用なんてのはまだしも、例えば、ライブドア株主総会議案書誤字だらけなんか見ると、その感が一層強くなる。日本語は根腐れを起こしている。
もちろん、環境の変化に従って新しい言葉も発生しているが、番組でも触れられていたが、「言葉の共食い」、言い換えれば、言葉のM&Aで、いわばたくさんあった都市銀行三菱東京UFJ銀行というまことに麗しい銀行名に統一されるようなもので、表現手段が増大したわけではない。
以前、オロゴン星人増殖中というエントリーを書いたが、日本語非ネイティブなネイティブ日本人が増えているからではないだろうか。日本語の言語環境がすっかり変わってしまったのだ。
違った環境で言葉に接すれば、自ずと言葉の解釈もずれてくる。例えば、最近読んだ404 Blog Not Found:いじめと個性には、さすがに仰天した。

いじめは一対一ではない。一対一からはじまるいじめもあるが、その段階ではまだいじめとは言わない。その「強い」ものに付和雷同するものがつき、そして残りがそれを傍観するという構図をとってはじめてそれはいじめと呼ばれる。いじめは多対一なのだ。これは辞書にもきちんと書くべきだろう。

いじめは当然、一対一でも多対一でも、一対多でも、多対多でも、アリなのだけれど、なぜか多対一とする弾さんの見解に異を唱えるコメントもない。そうなんだ、マスコミで扱われるいじめ報道って大抵は多対一だ。つまり、マスコミの報道量で「いじめ」の定義も変わってしまっているんだ。じゃあ、一対一とかの場合、どう表現すればいいんだろう? 「マスコミが扱いませんから、それはいじめじゃないです」なんてことになったりして。それじゃあ、教育委員会の報告ではいじめ自殺はゼロと同じになってしまう。言葉もまた多数によっていじめ殺される運命にあるのだろうか。
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