フリードマンの「選択の不自由」

フリードマン氏死去で「選択の自由」がブログでも話題になているが、「選択の自由」ってそもそも選択肢を増やすことなのか。
山口浩先生が格好の例を出して下さったので「シートベルトのない車に乗る権利」について考えてみる。
仮にシートベルトを装着する義務が撤廃された場合、本当に「選択の自由」が増えるのだろうか、という話。
確かに自動車のユーザーはシートベルト付きか付きでない車の選択ができるようになる。しかし、これはユーザーだけの選択肢だ。
三者、非ユーザー、というか、あるユーザーA以外の残りのユーザーと非ユーザーにとって実は選択肢は増えない。なぜなら、その人達にとっては、「シートベルト装着義務」と「シートベルト装着任意」という選択肢があったが、後者が選択されたことによって、前者は却下されるからだ。つまり、「シートベルト装着義務が課された社会で生活する自由」が否定されるのだ。逆の場合、、「シートベルト装着義務」が選択されたことによって「シートベルト装着任意という社会で生活する自由」が否定される。どっちにしても「選択の自由」は増えもしないし、減りもしない。
なぜそうなってしまうかと言えば、「制約」なしに「自由」など成立せず、機会1回生の原則という抜き難い当然の事実に阻まれるからだ。ある「制約」から解放されることは、それによって生じた「自由」という「制約」に縛られる。「個人の自由」は実はその他の人々にとっての制約なのだ。「自由」はちっとも「自由」でなく、そう無邪気に信じてしまう人は「自由」という言葉の呪術から「自由」でないからだ。言い換えれば「自由」というのは、その言葉自身、自己言及的で、「自由」になった途端、まさにその「自由」に束縛される。これを「フリードマン限界」という(ウソ)。
もしフリードマン的自由が更に極端になれば、「飲酒運転の自由」「殺人の自由」ということもアリになってくる。
タクシーや代行運転に比べて安全ではないだろうし、事故を起こしたら社会的コストも高くなるだろうが、価格は安いだろう、面倒臭くないだろう。飲酒者はは、どちらがいいか、考えて決めればいい。それは選択の自由だ、と。
憎たらしい上司に我慢するのと比べてヤバイだろうし、相手も殺す自由があるから返り討ちされる危険もあるが、殺したら清々して気分いいだろう。サラリーマンは、どちらがいいか、考えて決めればいい。それは選択の自由だ、と。
以下、何でもありなわけだけれど、究極的に常にアナーキーな社会を選ぶか、非アナーキーな社会を選ぶかという問題であって、「選択の自由」は永遠に増えることも減ることもないのだ。あるのはただ「選択の自由」だけなのだ。社会を豊かたらしめるのは、実は「選択の自由」ではなく「選択機会の多様化・増大化」だ。「シートベルトなしの車が売られる」ことと、自由や豊かさは何の関係もないのだ。
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