クラインのドツボ

山形浩生さんのエントリーを読んで、あの懐かしい浅田彰さんのクラインの壷対する山形さんの批判を思い出す。
Wikipediaクラインの壺を覗くと、
浅田彰のベストセラー『構造と力 記号論を超えて』には、表紙にたくさんのクラインの壷が描かれている。これは、浅田がポストモダン社会のメタファーとして、クラインの壷を使用したことに由来する。
このメタファーの有効性は、山形浩生らによって批判されたが、あるトポロジストから有力な批判を受け(浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない )、クラインの壺を完全に誤解していたのは、山形浩生であることが後に判明する。

とある。おやおや、「判明する」って初めから自明に誤解だったのじゃなかったのか?
でも、山形さんはこの批判も乗り越えてまだ「浅田式にはめぐらないのだ」と言い張っていたのを知る。「眉に唾はつけなくてよろしい。つけても半分くらいでいいよ」という譲歩つきなのだけれど。
で、まだ残っていた原典を読むと、
本当にこのクラインの壺は、浅田彰の思っていたような無限の循環運動をするだろうか。
不思議な問いだ。「このクラインの壷」ってどの壷なのか定かでないが、一般的に四次元の、本来のクラインの壷は循環して初めて成立するものだ。循環しないクラインの壷など有り得ない。もし、循環しないのなら、原典の中でも紹介されていたホースを単純につないだただのワッカだ。これは絶対に循環しないから、こんなものを使って浅田を批判した連中は完全にペケ。なぜクラインの壷なら循環するかといえば、壷そのものが動態だからだ。
これは壺なんだよ。つぼをひっくり返せば、中身は外に出る。それだけ。
つぼをひっくり返せば? クラインの壷にはそもそも上も下もないからひっくり返そうにもひっくり返らないし、外に出ようにもクラインの壷には内も外がないのに、どうやって外に出るんだろう?
同様、
点線だからといって、そこに面がないわけじゃない。そこは通り抜けられないのだ。ところが、この図では点線になってるもんで、なんかそこを貨幣なり価値なりがすっと通り抜けて上のほうの細い部分に回収されちゃうような印象がある。

も、何言っているのだかさっぱり分からない。もちろん、点線で示されたチューブは面など通り抜けない。そのまま連続してつながっているのだから何で面を通り抜ける必要あるんだろう?
それから、
クラインのつぼってたて切りにすると、しなびたチンコみたいなのね
さて四次元のクラインの壷を切ると、えええ、切断面が出てくるのではなく、切断体、つまり切断された立体が出てくる筈だが。
それはメビウスの帯だって同じ。メビウスの帯を切断すれば、メビウスの帯自体、三次元で成り立っているので、切断すれば、切断面が出て来る。なぜなら、メビウスの帯は二次元的には動態で、その面はどこも歪んでいるので切断線にはならない。鋏で切れば、切断線になるじゃないかという向きもあるかもしれないが、それはメビウスの帯の模型の話であって、模型のメビウスの帯を切断すれば、もはやメビウスの帯ではなくただの帯になっている。同様、ここに描かれたものはクラインの壷の模型の切断面であり、本来のクラインの壷とは何の関係もない。
眉に唾を付ける必要なんてない。完全な誤解なんだから。
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