Winnyとアナキズム

Winny的言説を見るにつけ、19世紀に勃興したアナキズムの変遷をお勉強してみた。よく似ている。
Anarchismを読むと、フローチャート的に勉強できる。
What is Property?と問うたのはプルードンだ。今、「著作権とは何か」という論争が始まったのは偶然ではなく、それがリアルとサイバーとの境界なしのpropertyだからだ。Winnyの共有ファイルに土地や建物を取り込むことはできない(いや、所有権は取り込むことができるかもしれない)が、著作権は取り込めるのだ。
金子勇氏は「ウィニーは表現(の自由)だ」「思想ではない」と言っている。しかし、これはちょっと甘いのじゃないか。どう考えてもウィニーpeer to peer(P2P)という設計思想を基にしているのは素人でも分かる。そして、思想は人々を何らかの形で行動を強制しようという表現なのだ。
なぜなら、思想そのものは常に中央集権的だということだ。 
Winnyのシステムそのものは非中央主権的であっても、P2Pという設計思想そのものは中央主権的にならざるを得ない。なぜなら、P2Pがメインになれば、P2Pそのものが参加者にP2Pであることを要求するからだ。より分かり易く言えば、「自由主義」という思想は人々に「自由」を要求する。その「自由」を秩序化するために、「自由」を保障するために権力を行使する必要がある。「自由」は常にパラドクシカルだ。
同様、P2P思想そのものが中央集権のヒエラルキーのトップに君臨するのは必定だろう。そうでなければ、P2Pの秩序は維持されないだろうから。金子氏はP2P世界における著作権のあり方を議論しましょうと提案されているが、何分頭悪いのでおよそ中央集権的構造なしでどうやって著作権を維持できるのか思いつかない。サイバーの場合、コントロールする法が出来る前に実行されるから、「これから議論しましょう」なんて暢気なこと言っていたら、既得権を否定しながら、実際には無政府状態(アナーキー)の中で既得権をまるごと持っていくことも可能になる。「既得権を否定する」というのは一見格好よく、自由な社会を目指す思想のように見えるが、「誰のものでもない」というのは、裏返すとまるごとある特定の人間の独占物になってしまう危険を抱えている。
それはアナキズムが独裁主義の対極から出発したにもかかわらず結局、現実には共産主義一党独裁に収斂したのとどこかよく似ている。Antinnyの出現は、何か暗示的で、これは人々の平等性、propertyをまるごと奪う点で、その後の独裁サイバーワールドを予兆しているように見える。もし、サイバー世界で最強のP2Pの使い手が出現したら、その人間は全世界の情報を一手にコントロールできる史上最強の独裁者ということにならないか? P2Pの思想にはそのような独裁者の出現を胚胎しているように思えるのだ。それはWinnyをバージョンアップすれば防げるというような牧歌的なものではないだろう。
「既得権を否定する」というのは一見格好よく、自由な社会を目指す思想のように見えるが、「誰のものでもない」というのは、裏返すとまるごとある特定の人間の独占物になってしまう危険を抱えている。
この宇宙に全くの真空や無重力空間が存在しないように理念的な「自由」やP2P的平等は現実には存在し得ないということだろう。それを忘れて無邪気に考えていると、いずれとんでもないことが起きるの悪寒がする。
See also Crypto-anarchism
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