内田樹先生の文はやはり理解不能

内田樹の研究室:言い訳上手になりました テレビが虚偽を報道したのを知って「裏切られた気持ちです」というようなことをしゃあしゃあと言ってのけるという「市井の無垢(で無知)な視聴者」のポーズそのものが「テレビ化された定型」に他ならないからである。「テレビ底なしの不信」というような新聞の見出しはまことに「テレビ的」である。そのことに気づいているのであろうか。
この文章そのものが意味不明なので気づきようがない。
「テレビ的」の意味は明らかにされていないが、恐らく「知っていたくせに驚くふりをする」ということだろう。
しかし、新聞にコメントした人が「市井の無垢(で無知)な視聴者」でない理由が分からない。ましてポーズなのかさえ分からない。けれど、内田先生はこのコメントした人は新聞社と結託して「市井の無垢(で無知)な視聴者」のポーズを取っているか、新聞社が「市井の無垢(で無知)な視聴者」の無知なコメントをわざとアリバイ工作で載せていると考えているとしか読めない。
「この程度のこと」が日常茶飯に行われていたことを同じメディアにいる人間が知らないはずはない。
と続けているのだから。
このコメントは別に大したものではない。だまされた人が多かったことを再確認するためのもので、言わば念押しコメント、復習コメントだ。何か市井の人が新聞社の知らなかった、あるいは知らなかったふりをした「新事実」を読者に知らせるためのコメントではない。
ところが内田先生はどうも、新聞社が「新事実発見」のコメントとして使っているふりをしていると思い込んでいるらしい。それは、後に出て来る
マスメディアは「驚いたふり」をするのを止めた方がいいと私は思う。その修辞的な「驚いたふり」は、要するに「私はこの不祥事にぜんぜんコミットしていませんからね。だって、何も知らなかったんだから」という言い訳のために戦略的に採用されているのである。
に現れていると思う。
当然、新聞社もコメントした人も知らなかったのだ。いい加減だろうなあと思うことと、具体的な事実が判明して知ることとは、もちろん全然違う。
裏返せば、内田先生は、新聞社は何でも知っていると全面的に信じ込んでいるという点で無垢(で無知)な学者先生なのだ。
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