自然科学が経済学を模倣する時代へ

池田信夫 blog:経済学は役に立つか 経済学って大したもんじゃない。「憂鬱な科学」という蔑称に示されるように、それは自然科学のまねをしようとしてできない中途半端な学問である。
確かに歴史的にそうだったかもしれないが、今後はそんな憂鬱に浸っていられなくなるだろう。なぜなら経済が自然現象に影響力を持つ地球温暖化の時代になると、「自然科学」が決定要因になって経済が動く時代になる。
目下、IPCCをはじめ、地球温暖化現象を研究している主体は自然科学者グループだ。大気中二酸化炭素がどれぐらい増えれば、平均気温が上昇し、海面温度が高くなれば、海洋生物の生態がどう変化し、大気中と海中の二酸化炭素交換がどう変化するか、などなどすべて自然科学者が主導している。
しかし、測定技術はともかく、やっていることは経済学者をむしろ模倣している印象さえある。要は炭素循環の流動を観測しているのだ。
例えば、化石燃料起源の二酸化炭素の大気中への放出は、中央銀行による金融緩和政策のように見える。炭素を通貨に置き換えれば、そうなる。地中に眠っていた炭素を放出することは、マネーサプライを彷彿させる。特に産業革命以降の炭素の放出はミルトン・フリードマンヘリコプターマネーのごとしだ。
実際、今は地質学的には氷河期で、恐竜が跋扈していた中生代よりも平均気温が摂氏で10度前後低いとされ、まるで自然版の流動性の罠のような状態が続いていた。生物による光合成と、海中のカルシウムを貝殻やサンゴの骨格などの主成分として炭酸カルシウム化で炭素貯蔵が進む一方だった。自然の経済は貯蓄率が一方的に上がる一方だった。中生代末期の白亜紀とは、海中の微小生物が炭酸カルシウム化して白亜層を形成したことから名付けられている。
いわゆるガイア仮説も、この一方的な貯蓄性向を太陽光度の漸増(数十億年後、太陽は地球を呑み込む運命にある)に伴う生命圏の適応として元々生物学用語であるホメオスタシスになぞらえて説明した。「ガイア」の語源がギリシア神話に登場する大地の女神であることと相俟ってまるで宗教的観念のように見る環境保護運動家もいるようだが、ジェームズ・ラヴロックは生命圏を生物学になぞらえただけなのだ。よく言われる「人類が滅んでも地球は困らない」というのはラヴロックの説に対する誤読であり、地球の安易な神格化だろう。
今後は経済が生命圏のメカニズムに組み込まれて行かざるを得ないだろう。京都議定書のようなインチキをしてお茶を濁しといるようでは、どうにもならない。ましてや「原子力推進前面に」などという経済産業省の「エネルギー基本計画」の改定案とか、「温暖化ガス削減、学校や病院などに数値目標」など単なるアリバイ工作だ。
ブログ上で展開された生産性論争もそれ自体はつまらないものだ。まだこちらとかあちら辺りでは続いているようだが、例えば森林という生物学的生産性の高い地域で言えばこの表では、ガーナは領土面積の28%(アフリカでは決して高い数字と言えない)、カンボジアでは53%を占めているが、こちらの方の炭素を吸収・保蔵するバイオマスの生産性は経済に全く反映されていない。これらの国では1人当たりのバイオマス生産性は先進諸国よりはるかに高いはずだ。
ガーナやカンボジアの賃金が低いのは自然の生産性が経済に反映されてないからだよ。
なのだ。二酸化炭素を排出する側が二酸化炭素を吸収する側に炭素為替レートのようなものに基づいて代金決済すれば、相対的にガーナやカンボジアの通貨は先進国の通貨に対して強くなり、相対的賃金水準は確実に上がるのだ。そして、森林面積縮小の歯止めになることは言うまでもない。
自然はとっくにグローバル化している。貿易障壁は大陸移動のような極めてゆっくりした動きで規制されていただけだった。ところが、グローバル経済による航空などの発達で、その規制も崩れてきている。自然と経済が融合しなければ、真のグローバル経済とは呼べない。
Clickで救えるblogがある⇒人気blogランキングにほんブログ村 経済ブログへ