内田樹先生の言う「まっとうな分析」の分析

内田樹先生が「マスメディアでけっして読むことができないのは、この種のクールでラディカルな分析である」と絶賛されているカフェ・ヒラカワ店主軽薄:ライブドアの判決を拝読する。
この事件の本質は、安易な道義的な責任や、被害者への同情によって隠蔽されるだけではないか、と思ったのである。
この論調は、二つの点でまったく指南力を失っている。

「二つ」のうちの一つは株を買うことは自己責任であるということだ。で、
企業が虚偽の申告をして、騙されて株を買うということは、株主にとっては合意の外であるのは判っている。だからこそ、法律で規制しているのである。しかし、だ(た?)とえ、株式市場の透明性が確保されていなくとも、株を買うということは株主のリスクであると考えるべきだろう。
頭の悪い私には難しい文章である。結局、粉飾されてもそれは自己責任だから文句言うな、ということらしい。それ以外に読み方が分からない。
うーむ、それでは、歩道を歩いていて、道交法違反の暴走車が突っ込んできて殺されても自己責任で遺族は文句言うなということになる。歩道のすぐ傍には車道があり、とんでもないドライバーが運転する車が突っ込んでくるリスクを考えない歩行者がバカなのである――ということだ。じゃあ、法律は何のためにあるのか分からなくなる。
ライブドアの株を買った人びとは善意の第三者ではない。
これも良く分からない。法律用語としての「善意の第三者」とは、その事件にかかわる事実を知らなかった人のことだ。この文を素直に読めば、ライブドア株を買った人びとは全員インサイダーになってしまう。そんなバカな!
もう「ひとつ」は堀江貴文氏の「道義的責任」に関するものだが、正直何を言いたいのか良く分からない。上梓なさる「株式会社という病」を読めば分かるのかもしれないが、↓の部分はナンセンスと思える。
株主資本主義の論理の中では、試算表に記載されない見えない価値を含む本来の会社価値ではなく、会社の現在の時価総額をこそ会社価値として考えようとする。それが、判りやすく、透明で、合理的であるという理由によって。そして、その圧力を作っているのは、今回被害を受けたものも含めて株主そのものであり、その意味では経営者に対して現在価値の最大化をせよと圧力をかけることに加担しているわけである。
そんなバカな! 「見えない価値」だって時価総額に含まれているよ。ただ見えないからどの程度時価総額に反映されているか誰も分からないだけで、この二つの価値は二項対立するようなものじゃない。「見えない価値」が反映されていないのなら、株価収益率(PER)などのような指標はどの会社も同じになってしまうが、現実はそうじゃない。大体、ライブドアだって「見えない価値」に幻想を膨らませる工作として粉飾したのだから自家撞着でさえある。
以上が内田樹先生の言う「まっとうな」分析なのだが、恐らく「見えないところ」にまっとうさがあるのかもしれない。
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