溺れる者は銃をもつかむ

なんてことを[米大学乱射]繰り返す銃犯罪 米社会に深い衝撃と悲しみバージニア工科大学のニュースを聞きながら思う。Patriotism is the last refuge of a scoundrel(愛国心は悪党の最後の砦)というけれど、この格言は所詮奇麗事の世界だ。現実は奇麗事じゃない。
人間は誰もが悪党に成り得ることを考えると、自尊心を守る最後の手段は殺すことだ。他殺にせよ、自殺にせよ。
このことは残念ながらグローバルスタンダードだ。特に恨みの対象がはっきりしなければ、無差別・・・。コミュニティの崩壊は恨みは持っていても具体的に誰に対する、何に対する恨みなのか、誰が、何が、自尊心を傷つけているのかはっきりしないことが多いということだ。
無差別殺人を人は狂気と言う。しかし、狂気なんて触れるものでないし、要するに比喩だ。どんな場合であっても、最後に人間のすることは自尊心をどう守るかであって、いくら非難されようが、死刑が待っていようが、何だってやる。快楽殺人とよく言われるが、裏返せば自尊心の快癒だ。
それに比べれば他人の反応なんてどれほどのものか。
人は殺人者に3日くらいは戦慄するだろう。3週間くらいは非難するだろう。3ヶ月くらいは安全をどう守るべきか騒ぐだろう。3年後には忘れているだろう。
人は自殺した人間に対して3日くらいはショックを受けるだろう。3週間くらいは同情するだろう。3ヶ月くらいは覚えているだろう。3年後には忘れているだろう。
忘れないのは犠牲者の関係者のみ。恨みは引き継がれる。悲しみは引き継がれる。不条理だが、不条理はなくならない。まるでエネルギー不滅の法則のようになくならない。不条理の連鎖は永遠に続く。
彼は恐らく社会的弱者であり、色んな意味で超少数派だ。恐らくこのようなことは永遠に繰り返される。法というのは窮鼠には何の意味もない。多数派のための都合のいい規制にすぎない。(どっかで聞いた台詞ではある)
銃規制などで統計学的にこのような事件を減らす方法もあるだろうが、こうした絶対的少数派は絶対に減らないのも統計学的真実だ。
なのに、「グローバルスタンダードから見ても立派な憲法」(立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」改憲狙う国民投票法案の愚 憲法9条のリアルな価値問え)などと耄碌した頭で考えている人も日本にはいる。
自尊心とは、それを守るためなら死んでもいい、殺してもいいという説明不能の合理を超えた何かだ。バージニアの殺人者は少なくとも自尊心は防衛したが、日本には守るべき自尊心そのものがなくなっているのかもしれない。このままでは日本はつかむ藁さえなくすかもしれない。
そうこう考えているうちに長崎市長、JR長崎駅前広場で撃たれるというニュースに接する。伊藤一長市長は長崎に落とされた原爆に怨念を持っていたのだろう。サロン平和主義者とは違うだろう。勘違いも連鎖するようだ。
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