自己と他者と遺伝子と

利己的遺伝子と利他的な遺伝子とをめぐって池田信夫氏とNATROM氏の間でちょっとしたconflict or skirmishが起きているらしい。その前にこれら二つの概念の前提となる「自己」とか「他者」って何だろかと思ってしまう。
まず間違いないことは遺伝子は核酸製のコードであり、自己などあるわけないだろうと思う。ドーキンスは百も承知で比喩として言葉を借用しているだろうとは容易に想像できる。
似たようなこととしてジェームズ・ラヴロックの「ガイア仮説」に対して、「植物や動物や岩石らが会議を開いて何を生かすか何を排除するか決めるわけがないので非科学的」なんて批判もあった。これって、「遺伝子が利己的だ」とベタに信じるのと同じくらい変な批判だ。
細菌が宿主を殺すほど強いと宿主そのものを殺してしまっては元も子もなくなるから細菌が会議開いて「生かさず殺さずが最上の得策」なんて結論が出て・・・なんてことあるわけないか。
で、利己的遺伝子は英語でselfish genesだろうか。けれどもselfishって必ずしも「利己的」と訳せないだろう。「それ自身的」というのが価値中立的訳なのかもしれない。自己が形成されていない単純な生物は、遺伝子レベルまで含めて「それ自身的」に行動し、人間が後講釈でもって擬人法的に「利己的」「利他的」と思い込む、あるいはそう措定する――。もっとも、そんな訳じゃ出版界という母集団で自然淘汰されちゃいそうだが。
そもそも「自己」を持っている生物ってどれくらいあるんだろう?
多分、哺乳類や鳥類は多かれ少なかれ持っているかもしれない。爬虫類? ビミョーだ。それ以下は? ビミョー過ぎる。植物に至っては∞ビミョー・・・。
まず思いつくのは他者の発見なくして自己が成立するのかどうかということ。この地球上で自分ひとりしか存在しなかったとしたら、その「自分」は自己を認識できるだろうかということ。なぜって手がかりがないだろが。
そうすると、自他とは対でしか成立しないんとちゃうか? コインの表と裏とか。というか、自己の中に互いに他者が刳り込まれているわけだから、利他心とか利己心とかも互いに刳り込み合っていることになる。
日常的概念としては普通に分けられても、何中華、社会学的にも生物学的にも、経済学的にも術語としては便宜上の記号でしかないという冷たい視線を向けた上で考えないとエラいことになりそうな気がする。例えば、気が付いたら、限りなく血液型占いに近付いていたとか。実際、その線で本売っている人もいるみたいだし。
生物学を経済学や社会学に応用すると、必ずぶち当たるのが「擬人化の罠」とも言うべきもので、必ずと言っていいほど自己の希望が理論に直に反映されそうである意味コワイ。「自己の利益の最大化」とか「自己の利益の最適化」ってのも多分に擬人化の罠が潜んでいる悪寒がする。
ところで、blogにも利己的遺伝子て働くのかな? blogだってコードでできているんじゃないのかな?
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