思考と志向と嗜好、あるいは地球村

池田信夫 blog:みのもんたの古い脳を読むと幾許かの違和感を覚える。「古い脳」は非合理で「感情的」なのか?
ここで言う「古い脳」とは大脳旧皮質(Limbic system)、「新しい脳」とは大脳新皮質(Neocortex)の比喩だろう。
旧皮質(大脳辺縁系)は情動、本能などを司ると言われているが、これ自体きわめて論理的だ。日常的には論理と感情は対立するように見えるが、実際には情動の方が正直に論理的でさえある。
例えば、腹が減った⇒食べたい、排泄したい⇒トイレに行きたい、暑い⇒冷房つけたい、などなどべたに合理的だ。むしろ、「本能が壊れた動物」、人間の方が非合理でアブナイ感じさえする。つまり、論理と感情を対立するかのように見るのは基本的には間違っていないか。
違いはといえば、新皮質の場合、言葉が介在していることだろうか。言葉によるシミュレーション操作が可能になり、より高次の合理的思考が可能になる。しかし、基本的にどっちも合理的であることには変わらない。
池田さんが引用しているPaul H. Rubinは、我々の先祖は長い間、小集団でゼロサムな活動していた名残りの思考様式を論拠にして移民排斥・保護貿易の非合理性を説明しているが、ちょっとこじつけぽくてついていけない。日本だって世界全体からすれば小集団だろ。
第一、先祖たちはゼロサムでなかったろう。でなければ、アフリカに誕生した人類が世界中に散らばることなどなかった。今はあまりに激しく変化しすぎているから牧歌的なゼロサムに見えるだけじゃないのか。
ちなみに経済のグローバル化とは、一見、ポジティム・サムのように見えるが、行き着くところは地球規模の究極的なゼロサム社会化だろう。地球温暖化問題はその典型として現れてきているし、食糧問題だってエネルギー問題だってそうだ。本物のゼロサム社会はこれからのことだろう。その意味で現在の移民排斥や保護貿易にはかなりの「合理性」もあると思える。
もし、現代において「感情」が非合理とするなら、そもそも「個人」など必要もなくなるだろう。豊かになりたいだの、人々の欲望の根源は「旧皮質」に属していて、「新皮質」は「旧皮質」の欲望を満たすための戦略的防衛あるいは攻撃システムであるとさえ言える。
で、
感情は小集団に適応しているので、「高金利をとられる人はかわいそうだ」といった少数の個人に対する同情は強いが、規制強化で市場から弾き出される数百万人の被害を感じることはできない。(池田信夫 blog)
というのは半分当たっているとしても、実はマスメディアを通じて「数百万の高金利をとられる人」にかわいそうだ、と思えるのが現代で、同様、「市場から弾き出される数百万人の被害」だってマスメディアがそのように伝えれば感じられるだろう。メディア社会そのものが先祖返りして新旧両皮質で成り立っているところがある。
どっちにしても「かわいそう」が基盤になっていることに変わりない。旧皮質の基盤なくして合理性も何もないのだ。
まあ、そんなことは池田氏もコメント欄で、
コンピュータの世界では、ニューラルネットのように古い脳を模擬するシステムがフロンティアですが、経済学でも古い脳の分析が必要だと思います。
と述べておられるので承知の上のことだろうが、絶対的な合理的行動が数学のように証明されるものではなく、正確に言えば「合理的だろうというコンセンサス」の問題で、結局、根底で支えるのは「感情」的人気投票だ。
それにだ。
ふだん「官民癒着」を批判している某局の有名キャスターが、デジタル放送を税制で優遇してくれと陳情に来て驚いたと書いている。実は、彼らも自分たちの電波利権という身の回りの利益は感じても、国民経済の大きな利益は感じていないのだ。彼らの反政府的な言論も、強い者をたたいて古い脳に訴えるマーケティングにすぎないのである。(同)
って、これこそ経済人の概念を示したアダム・スミスの、
経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的で冷徹無比な存在。
の典型に思えるんだが。
結局、至高の思考だって志向と嗜好がないまぜになって決まるという駄洒落で終わってしまうという情けないオチになてしまったorz
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