バイアスの堂々巡り

古い脳の経済学(池田信夫 blog) こうしたバイアスを考慮に入れない政策は、たとえ合理的であっても採用されない。
これを読んで脳内は堂々巡り状態にになってしまう。
まず「バイアスを考慮に入れない政策は、たとえ合理的であっても」というのは、本当に合理的なのだろうかという問題。どのレベルで「合理的」とするかが問題になるけれど、バイアスは当然影響力があるから、その影響力を考慮しない政策は非合理ということになる。
じゃあ、「バイアスを考慮に入れた政策は合理的」なのかどうか。
バイアスは非合理だからこそバイアスなんだろうから、その非合理を考慮した政策は非合理ではないか。
いや、そうでもない。バイアスは「複雑な論理にすぎない」のだろうから、「バイアス=合理の塊」なんだよ。
で、これを最初の引用に代入すると、
こうした合理の塊を考慮に入れない政策は、たとえ合理的であっても採用されない。
こりゃまずい。やっぱり、
こうした合理の塊を考慮に入れない政策は、たとえ非合理であっても採用されない。
・・・やっぱり変だ。
これ、数学のことはよく分からんけれど、合理性におけるゲーデル風「不完全性定理」に近い状況になるんだろうか。自己言及のパラドックスというか、合理性のパラドックスというか。例えば、合理性とは何かと定義した途端に、それ自体がバイアスになってしまうとか。合理⇔非合理という対立軸自体が、最初の一歩でself-assessmentの恣意性から免れず、「不完全」であるとか。
大体、「バイアスの塊」という表現には違和感がある。バイアスとは歪みであり、volatilityが極めて高いのは株式の新興市場と同じだ。つまり、塊という固定的、個体的イメージと真逆な気がする。
実際、広義であろうが狭義であろうが、メディアの流動性の大きさは液体の如しだ。
社会の中で大学を新皮質とすれば、メディアは辺縁系だが、社会を動かすのは後者である。
いや、メディアは文字通り媒体であって、波を伝える液体に過ぎない。もちろん、社会そのものが液体であるということもできるだろうが。
比喩としては新皮質はrewritable系、辺縁系はunrewritable basics系ということぐらいじゃなかろうか。
結局、万物は流転する。なぜ流転するかといえば、不完全だから。不完全ゆえにバイアスがかかり、バイアスがあるから歪みが生じ、歪みがあるから自律反発的に流転する⇒以下ループ。
で、現実は、合理と非合理の緩急自在のピッチングが出来る政治家や官僚がやはり強そうだな。
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