国家とは国民にできた癌だ

しかし、一番足りない想像力は、「国家」を「自分たち」に含めるにはどうしたらよいか、という想像力なのかも知れません。国家が国民にとっての二人称であり続けるかぎり、国家もまた国民を二人称扱いし続けるでしょう。そして二人称であり続ける限り、権利の応酬合戦もまたなくならないでしょう。(404 Blog Not Found:年金を反古にする権利は当然存在します)
「国家」と「自分たち」が一人称になることは永遠にない。なぜなら一人称でないから国家なのだから。
正確を期すれば、国家は三人称だ。実は国家とは、「私」と「あなた」の間に抽象化されたある種の法人なのだ。単純化すれば、国家は二人いれば成り立つ。「私」と「あなた」との間の約束事。これが国家の原型だ。「昨日会うと約束したのにすっぽかされた」と私orあなたは架空の約束手形を根拠に難詰する。「私」が多数増殖し、「あなた」も多数増殖し、架空の約束手形もそれに伴って増殖錯綜し、ワケワカメになる状態ことを避けるために「国家」という架空人間を創出する。架空人間は忙しいので事務員や更にサブ架空人間も作り、働かせる。それがやがて国会議員とか、役人とか、行政官とか、裁判官とかに分業し、巨大な「国家」が出現する。
彼らは「私」や「あなた」から構成されているので、あたかも同一のような、あるいは同一であることができると錯覚をするかもしれないが、彼らは「私」や「あなた」に対して常に「彼」または「彼女」であり続けることでしか存続できない。
なぜなら、「彼」や「彼女」は別の利益共同体に属さないと「彼」や「彼女」であり続けられないからだ。「代理」とはそういうことだ。国会議員は国民の代表として選ばれるが、選ばれた途端、別の利益共同体になる。つまり、代表として選ばれても、代表になった途端、代表でなくなることが最初から構造的に運命付けられている。
「国民の意思」は常に「国民の代表の意思」に摩り替えられ、それは常に等価でない。
「原型」の2人同士の「約束」すら、実は「私」の脳内約束と「あなた」の脳内約束として既に乖離しており、等価ではない。ましてや「国家」と「国民」の約束においてをや。
実は国家とは、国民にできた「癌」、つまり約束のミスコピーが増殖したものだ。ところが困ったことに削除すれば、国民は存在しなくなる。国民もやめようと言うのならその線もあるが。かといって放置しておけば、どんどん増殖してますますやられてしまう。永遠に敵対が運命付けられているのだ。
よって、国家と常に敵対して生かさず殺さずしておくことが国民のなすべきことだ。国民が国家に生かさず殺さず状態にされないために。
「権利」も固定的なものと解してはならない。常に闘争的に改変できるものであると。社会保険庁の窓口で大きな声を出すものがより大きな権利を手にすると言われるのもそのためだ。法律は額面価格に過ぎないのだ。
一方、国家は常に「権利は固定的なものとして国民に固定観念を植え付けるべし」と洗脳しようと仕掛けてくる。大体、「国民」と「国家」が同一だと思わせること自体が、国家が国民に仕掛けた統治戦略だ。
よって、国民の義務とは、権利を可能な限り広げようという意思を持つことであり、「権利ばかり主張する人間」は実は一番国家の維持に貢献している。その意味でも権利と義務の関係は裏腹の関係にある。
Clickで救えるblogがある⇒人気blogランキングブログランキング・にほんブログ村へ