ネットイナゴ=プロレタリアート論

ウェブは資本主義を超える極東ブログ:[書評]ウェブは資本主義を超える(池田信夫) この書籍全体が示唆するものは相当に長い射程を持っている。 を中心に、書評の書評。
一方で、fromdusktildawn このレビューを読んだ限りでは...射程は長くても的には当たりそうもない感じ。若い頃、ドラッカー、トフラー、フクヤマなどを読んだときに感じた、時代を俯瞰するような爽快感は感じないんだよなぁ。
というのもある。どっちなんだろう?
個人的にはfromdusktildawn氏に同意に近いのかもしれない。
デジタル情報に稀少性はないから、「協同的な富が過剰に湧き出る」ので、財産権には意味がなくなる。
とか、
情報生産において、資本主義の法則が逆転し、個人の時間を効率的に配分するテクノロジーがもっとも重要になったのである。だからユーザーが情報を検索する時間を節約するグーグルが、その中心に位置することは偶然ではない。
とか、はっきり言ってお花畑だと思う。特に、
1960年代から今日までに計算能力の価格は1億分の1になったからである。これは建設に100億円かかった工場が100円で建てられるということだから、こうなると工場に労働者を集めるより、労働者が各自で「工場」をもって生産するほうが効率的になる。
なんて、そんなことIT以前の工業社会でも何度も起きていたでしょうに。コケオドシはイクナイ。
池田氏も少し認めているが、
資本主義社会では、希少な物的資源を利用する権利(財産権)に価値がつく。情報社会では膨大な情報の中から希少な関心を引きつける権利(広告)に価値がつくのである。(以上極東ブログ)
言い換えれば、資本蓄積の方法論が変わっただけで、基本は何も変わっていません、と白状しているようなものだ。当たり前ではないか。「希少な物的資源」も人間の「希少な関心」に基づいているからこそ「希少な物的資源」であるんだ。人間の関心と無縁なところで独立して物的資源が「希少」であるわけもなし。
例えば、情報社会における知名度資本というのは、現ナマ資本以上にその増殖力が強力なのはライブドアで見たとおりだ。現代の政治家がますます世襲化しているのも「血統」がそのまんま「知名度」に変換されたのだ。知名度が問題だから血統が利用されるという逆転が起きたから、安倍晋三東国原英夫もそのまんま同じタレント政治家なのが情報社会だ。
これらの現象は既存マスメディアによる操作というのは甘い。サイバースペースは当然その延長線上にある。ブログがゴミとマスメディアから蔑まされようが、ゴミも成金になるのがサイバースペース資本主義だ。サイバースペースの未来とは、つまりこんなもんなのだ。
その身近な例としてトラックバック一つで知名度資本カルテルだっていとも簡単にできるし、現にやられているし、ソーシャルブックマークもとうに寡占状態で独占禁止法の適用は受けない。
ブクマに巣食うとされているネットイナゴは実は無賃金労働者のようなものでブログ管理人を罵倒しながら自ら管理人の資本蓄積のために奉仕している究極のプロレタリアートである。彼らは罵倒という報酬を受け取る代わりにサイバースペースで広告チラシを配っているのだ。正に そう。一言「ネットイナゴうぜー」と欄外に書くだけで、本書の価値は格段に上がるのである(404 Blog Not Found)とは、そういうことなのだ。これこそ「自由の過剰な世界(池田信夫 blog」だからこその資本主義のありようだ。規制がなくても財産が自ずから生成されるのがウェブ資本主義なのだから、財産築くには財産権など却って邪魔うぜーの世界だ。法的規制以上のinvisible regulationがわがものになるからこそ「自由」は尊いのだ。
社会の「情報」化が進むということは、その舞台裏において「奴隷機構」の整備と「暴力装置」の強化が進むということに他なりません。(赤の女王とお茶を:「自由の国」を支える「奴隷」と「暴力」)というのも、なんとなく古代ギリシャぽいけれど、情報社会ではもっと洗練されていて、「自由」なのか「奴隷」なのかワケワカメ状態になるから困ったものなのだ。
そして鬱になってもしょうがないのだ。これが前途洋々たる世界なのだから。
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