アヒルと鴨のコインロッカー〜投げ遣りなテロリスト

アヒルと鴨のコインロッカーボブ・ディランの「風に吹かれて」が基調になっているが、なぜか映画そのものの雰囲気は同じ「風」でも村上春樹の「風の歌を聴け」に似てなくもない。主人公の「僕」にあたる人物が、新幹線で大学のある仙台駅に着き、最後はまた仙台駅から実家に帰るという始めと終わりも「風歌」とそっくり。「風歌」は実家に戻り、また大学に行くと、方向は真逆なのだけれど。
「風歌」の鼠に相当しそうな「河崎」は、最初は日本人、途中でブータン人と分かる設定になっているが、けれど、どっちでもよさげで投げ遣りな雰囲気だ。「風歌」が退屈がテーマとすれば、こちらは投げ遣りがテーマなのかと思えて来る。
例えば、買って得た「広辞苑」と盗んで得た「広辞苑」とは違う、というこだわりは実は投げ遣りの裏返しであることが「広辞苑」でも「広辞林」でもどっちでもよいという結果で表現される。この裏返された投げ遣りぷりはタイトルのアヒルと鴨の違い、ひいては日本人とブータン人の違いにまで波及してしまう。
あの本屋襲撃だってひょっとすると同じ村上春樹の「パン屋再襲撃」のパロディなのかなと思ってしまうし、「コインロッカー」は違う村上の「コインロッカーベイビーズ」のオマージュだったりしてなどと想像を膨らませる。
なぜか瑛太の演じるブータン人は20年くらい前の日本人の若者に、日本人になりすました瑛太は今現在の日本の若者のように見える。その落差に垣間見られる喪失感は、そのままブータン絡みで登場する輪廻転生の観念に結びついているようだ。日本人の瑛太は生まれ変わりなのだ。鳥葬の物真似はその儀式であるかのようだ。「河崎」は生まれ変わったのだ。これもかなり投げ遣りな輪廻転生ではある。
そもそもボブ・ディランの歌を神の声とするのも随分投げ遣りだし、実は「風に吹かれて」そのものが今にして思えばかなり投げ遣りな反戦歌だ。投げ遣りな神様を封印する儀式?
彼らはボブ・ディランを爆弾替わりにコインロッカーに入れたのだろうか?
などと妄想もさせてくれる。投げ遣りなテロリストの物語とか。
変哲もない郊外の住宅地がロケのほとんどを占めるのに映像に飽きがこない。現実感の慢性的な希薄さがよく表現されている。
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