合成の誤謬vs.分割の誤謬

日本語版ウィキペディアでは「合成の誤謬」は、経済学用語として紹介されているが、英語版Fallacy of compositionでは、論理学用語として説明されており、経済学用語としては応用編として紹介されている。元々は経済学が論理学から借用したものなのに日本ではなぜか経済学のみで有名だ。
英語版によると、Fallacy of compositionは、
1.Atoms are not visible to the naked eye
2.Humans are made up of atoms
3.Therefore, humans are not visible to the naked eye

という例を出している。なんか物凄く基本的な論理のひとつだ。
英語版では、ご丁寧に対語として、Fallacy of divisionもリンクしてある。日本語版は独立した項目はないが、なんと詭弁の1項目として「分割の誤謬」で紹介されている。一例として、
A「Bさんはお金持ちだ。だから身に付けている装飾品も、自己所有の自動車も、住んでいる家も、全て高価なものに違いない」
実はそれと並んで「合成の誤謬」も詭弁の一項目として紹介されている。一例として、
A「Bさんの腕時計はロレックスで、財布とサングラスはグッチだった。きっと彼はお金持ちに違いない」
これは「ある部分がXだから、全体もX」という議論で、合成の誤謬と呼ばれる。早まった一般化との違いは、最初に着目するものが「全体に対しての部分」であるという点。

論理学的には実に分かり易い。
ところで池田信夫blogで取り上げられているNTTの企業年金訴訟合成の誤謬として成り立つのだろうか。
つまり、年金支給の減額ができないということは部分的善、減額すれば全体的善と言えるのかどうか。
池田さんの論によると、判決は一段階論理の正義だそうだが、じゃあ二段階論理の正義が正しいという根拠ってあるんだろうか。二段階がある以上、三段階も四段階も、n段階論理の正義も考えられるだろう。
下手したらn段階論理の正義≒一段階論理の正義
でした、なんてオチになりかねない。
論理上の思考では、かくもシンプルであっても、現実社会では極論すれば、日本なら1億通りの正義があり、しかもその正義ときたら、固定的なものではなくTPOによって変幻自在だ。
応用した経済学でも、あくまで合成の誤謬は、かなりマクロな一般論で語られるのが限度のように見える。
NTTの企業年金訴訟はまず個々のNTT社員が部分であり、NTTという会社の経営が全体だ。更にその外部に日本全体の雇用問題があり、契約社会という問題もあり、これらに対してNTTは部分でしかなくなる。更に更に世界全体の労働市場とかがあり、これに対しては日本の雇用問題、契約社会という問題は部分になってしまう。
こうなると、もう訳が分からなくなる。そもそもNTT社員にとって、「なんで世界全体のこと考えなきゃいかんの?」で「分割の誤謬」じゃないのかと言いたくもなるだろう。
A「NTTは大会社だ。だから社員全員裕福に違いない」
なんて言われても、そりゃ詭弁だぞ、とか何とか。
全く関係ないがNTT分割は誤謬だったのではなかろうか。不便でしょうがない。
ここまで書いて、こりゃ収拾がつかんと実感する。確実なのは人それぞれポジションがあって、全体の正義など幻想だから合成の誤謬を正義に応用するのは不可能ということだろうか。というか、合成の誤謬を楯に部分攻撃するのはマルクスレーニン主義の亜流じゃないかとさえ思えてくる。つまり、「合成の誤謬」のイデオロギー化。それは意見の主体だけの正義しか反映していない。これが成り立つなら、政治(別に永田町だけのことじゃない)はいらないだろう。
そもそも合成の誤謬というのは例外的事例で、↑の英語の例を
1.Atoms have weight
2.Humans are made up of atoms
3.Therefore, humans have weight
と変えれば、なんてことなく当たり前のことだ。
もし、合成の誤謬が普遍的なら、そもそもアダム・スミスの「神の見えざる手」も成り立たないわけで、個々の人間がそれぞれの利益を追求するのは間違っている、という全体主義にもなりかねない。
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