炭素本位制ノート1

脱温暖化会議―「イチ抜けた」を出すな(朝日)

公平感のある削減目標の割り当て方法を探って、地球規模の排出量取引に道を開きたい。

どうせ公平感も何も排出権などインチキに決まっているので、バリ島での会議も何の役にも立ちそうにないから炭素本位制なるものの試論を書いてみよう。
世界共通の価値の基軸が死であることは「ウラン本位制」で述べた。
それを引き継ぐ可能性として「炭素本位制」があることも述べた。
その基軸としてあるのは地球温暖化に伏在する地球滅亡という究極の死だ。
では、「炭素本位制」とは、どのような形で通貨とリンクするべきなのか。
地球温暖化=生態系インフレーション理論」でも復習したように地球表面での炭素流通量と経済の通貨供給量とは極めて類似の現象を起こす。
だとするなら、いっそ地中から掘り出されて地表に供給される化石燃料起源の炭素Cも通貨と同じと見なせば一番手っ取り早く、シンプルで合理的で効率的だ。
通貨Mには発行元の中央銀行があるが、通貨Cの発行元はどこかと言えば、鉱山会社とするのは早計だ。鉱山会社は一般の通貨取引仲介業者に過ぎない。では何が発行元とするとなると、自然そのものの中央銀行Nを措定する必要がある。そのNが行う金融政策は、一般の中央銀行のそれが政府から独立した専権事項であるように、人為から独立した専権事項でなければならない。炭素流通量は人間の利害だけでなく自然の利害にも直に関連する重大案件なので、あらゆる人間の政治的恣意を排除しなければならない。
言わば、人間世界の国々のほかに、もう一つ別の国、Natureを法人(legal person)ならぬ法国(legal country)を措定し、自主独立を認めることになる。
自然Natureに意思などある訳もないのだが、意思というきわめて人間中心主義的な概念など実は重要ではない。人間の意思、意図は脳内の観念的現実であっても、物理的現実ではない。物理的現実では意思も単なる物理的反応に回収される。
逆に言えば、Natureにおける生物活動あるいは非生物的物理化学反応すらが自然版「意思」であり、その活動は人間における経済活動と等価と見なす、それだけだ。例えば、二酸化炭素濃度の増大で森林や海洋生物がどう反応するかも「意思」と見なすことで、この法国Natureは主権を獲得する。その領土はどこかと言えば、地球全体で、炭素流通が行われている全てだ。だから、もちろん、人間の肉体もNatureの国土の一部だ。
つまり、この国は人間系と対立する、ある意味同じ地球上に二重に成立する「国家」で、われわれ人間はその両方に所属している。
自然の生物学的、物理化学的活動を主権の発動としたが、人間の経済活動もまた人間の意思を捨象すれば、自然の生物学的、物理化学的活動の一部にすぎない。では、なぜ両者を区別するのかと言えば、産業革命以降、Natureの通貨Cを盗掘のようにして取り出し、経済活動が、他の自然活動に明白に影響を与えるぐらいの力を持つようになって、自然がハイパーインフレを起こす事態になってきたことにほかならない。前述のように人間はNatureの一部なので、人間自身が脅威を感じることで、対策を講じようということになる。その対策を講じることもまた自然現象の一部であり、決して「地球を救え=Save the Earh」というようなおセンチなことではない。
以上の前提に立つと、後は通貨Cと人間通貨Hとの交換方法だけでほとんど解決する。
実は人間が意図しなくても通貨Cと人間通貨Hが為替取引のように交換されている市場が存在する。その代表は原油市場だ。原油市場とは、人間が意識しようがしまいが供給される通貨Cの交換価格を決める市場でもある。
原油の価値はそこに含まれる炭素と水素という潜在エネルギー量で事実上決まると言っても過言ではない。もちろん、石油化成品のように燃料目的以外に使用価値はあるが、それ自体燃料価値に支配されて価値が形成されるので事実上燃料価値と見なしていいだろう。
問題は原油には水素も含まれていることで、この水素エネルギーは通貨Cに対し中立的なので、原油価格から控除する必要がある。
つまり、原油価格以外の化石燃料の価格を略して通貨Cの交換レートを決めるとすると、
C=原油価格×炭素由来潜在エネルギー/(炭素由来潜在エネルギー+水素由来潜在エネルギー)
となる。
後は技術的な計算のみだ。このレートC炭素とH通貨が交換されるということは、原油購入者は原油価格プラスその原油の含有炭素量×CレートのH通貨を支払わなければならなくなる。
では、この余分の支払いは誰に支払うのか。それは次回のテーマだろう。
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