佐世保自爆テロ事件と世界崩壊感覚

佐世保乱射事件とひとくくりに言われているようだけれど、乱射かどうか疑わしい。むしろ、馬込政義容疑者の迷彩服などの風体を想像してすぐさま思い出したのは、不謹慎かもしれないが、「若者を見殺しにする国―私を戦争に向かわせるものは何か」の赤木智弘氏だった。乱射事件というより自爆テロの色彩が強い。
赤木智弘氏については、以前、「兵士」になれなかった三島由紀夫と「兵士」になりたい赤木智弘氏に書いたけれど、37歳という年齢も微妙だ。無職でこの先どうするんだ、という思いもあったろう。今日のテレビのコメンテーターも「劇場型という点で三島事件に似ている」とは言っていた。
本質部分では特段似ているとは思わないけれど、共通点はある。馬込容疑者も、深い絶望を感じていたことはまず間違いない。いわゆる「世界崩壊」願望という点では共通性はあると思う。もう一つ、三島由紀夫も、事件を起こす際、事前に親しい記者に連絡して現場に来るように要請していたことか。もっとも三島の目的は証言者を確保することだったが、馬込容疑者はそうじゃなかった。
「乱射」と言っても、死者は2人で、意外と少ない。クレー射撃4位という腕前らしいからかなり標的を正確に捉えていたのだろう。1人は親友、もう1人は、写真だけで見ても誰もが憧れそうな若くて美しく明るい女性。この女性との関係はいまだ明らかになっていないが、面識はあったのは間違いないだろう。推測すれば、遠くで憧れの目で見るが声をかけられない、あるいは声をかけてもかなわぬ存在だったのかもしれない。声をかけていれば、誰かが見ていて証言しているはずだ。
馬込容疑者にとって、2人は一等大切な存在――だから自分の手で完結させたい。いわゆる道連れという感覚じゃないと思う。ここらへん、既に日常を逸脱した人間の心理なので分かりにくい。5、6年前まで音信不通だった知人まで「招待」していることを考えると、むしろ、自分を認めてくれた、あるいは自分が認める人に最後のコミュニケーションをしたかったフシがある。殺人だって一種の極端な形でのコミュニケーション活動だ。世界といっても、所詮自分が死ねば世界が崩壊するのと同じだ。こういう心理になると、だからこそ愛する人を崩壊する目に「完結」させたい、という願望は、ある意味小説を完成させようとする作家の心理と似ているのではないか。
死を覚悟したと思われる人間は常識が通じず、かつ核心部分で理性を失っていないからややこしい。日常を逸脱しかつ社会との関係性を保持するのは、多分、戦争しかないように思える。戦争はある程度公平に死のリスクを付与される分、絶望感を緩和させてくれる。
彼は何かを訴えるわけでもなくカトリック教会で自殺した。本人も20歳くらいまでは通っていたそうだが、佐世保という街はキリスト教会がかなりありふれているのでそう重い意味はないのかもしれない。あえて邪推すれば、自殺を禁止しているカトリックを、けっきょく、「自殺は罪悪」ですか カトリックをひっぱたきたい──という気持ちだったのだろうか。
殺された人たちはいい迷惑だ。しかし、深い絶望から防御する手段なんてあるんだろうか、と素朴に思う。銃規制などしたところで、その暴発は防げそうにない。確実に言えるのは、絶望の最後の捌け口にテロという選択肢を考える人間がひそやかに増えているということだけだろう。テロが非対称の戦争と呼ばれ始めたが、絶望はこうした形で「戦争」へと向かわせる。
Clickで救えるblogがある⇒人気blogランキングブログランキング・にほんブログ村へ