宮台真司先生久々に気合のKY論

MIYADAI.com Blog:出でよ、新しき知識人「KY」が突きつける日本的課題 自民党の残りと民主党の過半がリベラル新党に向かうかもしれません(民主党の一部は保守新党に行きます)。
そうなんだろうね。私の言う「因数分解」がいよいよ始まるということか。
で、メインのKYだけれど、
〈生活世界〉は「善意&自発性」が優位なコミュニケーション領域です。地元商店的なものといってもいい。かつてなら生産の場が〈システム〉でも、消費の場は〈生活世界〉でした。今では消費の場での便益の授受までもが「役割&マニュアル」経由になっています。
というのは、たとえも実体に即して分かり易いし、さすがだな、と思う。
〈システム〉の全域化で〈生活世界〉が空洞化すると、社会的流動性が上昇します。かつては社会的流動性が低く、小さい頃に自分の周りにいた人間は大きくなってもずっと一緒。幼い頃の恥かしい体験を皆が覚えていた。皆は互いに共通前提の存在を当てにできました。
あ、これは「情報温暖化」とほぼ同じことをもっと生活感覚に即して言っているな。ハリケーンの大型化も、金融市場の過剰流動性によるバブル化も、特定トピックの「祭り」、サイバーカスケードも基本同じメカニズム。
ノリによって疑似的な共通前提をその都度作り出さないとコミュニケーションを前に進められないこと。ここから「空気を読め」という奇妙な命令文が生またのです。かくして空気を壊すことへの異常なほどの忌避や、キャラを演じることへの執着が生まれてきたのです。
うむむ、先の自民党総裁選共同会見で、どっかの記者が「キャラ立ちしますか?」なんて質問する昨今だからね。UFO問題も疑似的な共通前提をその都度作り、前に進めるためのあざといスピーチライターの戦略なんだろうか。あれは確か町村信孝官房長官が実質言いだしっぺだったと記憶するが、本当は石破茂防衛相とか、鳩山邦夫法務相が言い出した方が説得力ある筈なのだけれど、それじゃ意外性なしでインパクトないから一番言いそうにない町村官房長官に白羽の矢が立ったとか。
十年前に私が教える大学の授業でこんなことがありました。夏の盛りに冷房装置が壊れ、教室の温度が非常に高い。ところが教室に入ると窓がしまったままで、暑いはずなのに誰も窓を開けようとしません。学生たちは汗だくで座っている。結局、私が窓を開けました。
 後で学生たちに個別に尋ねますと、学生たちの言い分は、誰も開けないのに自分が開けると浮いてしまうと言うのです。

これも、小中レベルならともかく大学というのが凄い。
「何でも話せるのが親友じゃないのか」と尋ねると、今度は彼女たちが驚いて、「親友とは自分がどう思われるのかを一番気にしなければならない相手を意味するのとだ」と答えます。
何とはなしに、三島由紀夫を思い出す。三島は、本音がなく建前だけの人間と評されていたように思う。それを空虚な魂とか色々言われていた。
「亀田問題」について90分のトークラジオ番組内で、電話で意見を集めると、9対1の割合で亀田一家批判が圧倒的でした。 (中略)
すると途端に比率は逆転して「宮台の言う通りだ」が7対3の多数派になる。ここには同調圧力に負けるというより、周囲の空気がそのまま自分に感染してしまう事態があります。

これはちょっと割引して読むべきか。宮台さんのトーク番組だから宮台ファンの比率高いから、一時的に「宮台の言う通りだ」に傾くのはやむをえないような。でも番組終わったら、「でも待てよ、同じ興行でもボクシングとプロレスはやっぱ違うだろう」ということに大部分なっていると思う。
そこでは「空気を読めない奴」の意味が、世代間で名指す「ワケの分からない奴」から世代内で名指す「ノリに乗れない奴」に変わりました。「ワケの分からない奴」は異なるトライブ(種族)に分類されるだけですが、「ノリに乗れない奴」はイジメの対象になります。
ここらへんも分かり易くて鋭い。
日本のエリートに承認を与えたのは階級文化でも競争神話でもなく、村落の共同性でした。書生という概念がそれを象徴します。
ああ、なるほど。
知識人とエキスパート(専門人)は分けて考えるべきです。知識人は公的貢献への意欲ゆえに社会的な全体性にアクセスできる存在です。これに対してエキスパートは、専門領域に通暁しますが、社会的な全体性にアクセスする動機づけも能力も持たない存在です。
ここらへんは何かデジャブ感がある。西部邁さんが90年代あたりに盛んに似たようなこと言っていた覚えがある。確か西部さんは「専門人は大衆」とか言っていたような。「宮台真司氏と西部邁氏の歴史的和解」があって、この論は言わば、正反合止揚的成果なのかと麗しい。
昭和30年代がブームです。続編も作られた『ALWAYS 三丁目の夕日』でも、当時を知らない作り手が、「昔はこんなによかった」とばかりに表現しますが、笑止千万。昭和30年代は、凶悪犯罪、公害問題、薬害問題など、あらゆるものが今より遙かに激烈でした。
昨今のノスタルジーブームは「いいとこ取り」をしているだけ。

この部分はちょっと引っ掛かる。続編ではいきなり、ゴジラが登場する。それがまた50年代のハリボテみたいな「本物」のゴジラと違って物凄く「リアル」なゴジラだった。何が言いたいのかと言えば、あの映画では「本物」と「まがい物」とが倒錯しているというか、まがい物の方がリアルという居直りのためにゴジラを冒頭に持って来たのだと思う。
だから作り手の無知とは思えない。それにノスタルジーって元々「いいとこ取り」が前提という居直りなしで成立するんだろうか。逆に「いいとこ取り」でないノスタルジーって有り得ない気がする。
不安はマスメディアにとっての最大のエサです。
これはまあ、グローバル経済にも当て嵌まるというか、サブプライムローンが深刻、深刻と言われながら、当のNYダウは先週末も高騰していて実際にはそんなへこんでない。「サブサブ詐欺」なんちゃって。
いや、久し振りにネットで読み甲斐のある長文読ませてもらった。
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