関サバは釣り

森達也 リアル共同幻想論:関サバと岬サバは何が違うのか 同じ豊予海峡で捕獲されながら四国側の佐田岬に水揚げされたサバとアジは、岬サバ、岬アジと呼ばれるが、値段は関サバ、関アジの半分以下だ。以前、佐賀関の市場に行ったとき、年配の仲買人に聞いたことがある。「関サバや関アジ、それと岬サバ、岬アジは、何が違うんですか」「値段じゃろうが」「それだけ?」「違いは他になかよ。まあ世の中なんてそんなもんじゃ」(一部略)
規制緩和され、選択の自由が増えると値段が安くなるのは幻想だ。別の規制が勝手に働いて同じものなのに規制がきつい時以上に値段が高くなることもある。
ミルトン・フリードマン選択の自由」と言っても、必ずしも人々はその自由を欲しない。なぜなら選択するのは意外に面倒くさい。選択するには結構勉強しなければならない。本当ならどうでもいいことまで選択を強いられることすらある。
しかも、その「選択の自由」には、自由度が高いのと逆相関で禁忌というもの、ご法度を破る喜びもないので、実は選択のし甲斐すら奪われている。本当に選択したいことって、実は禁じられていることの方が多い。フリードマンは実はそこらへんの心の機微までは素人だったような。
ブランドというのは、こうした面倒な選択を代理するための擬似制度だ。ブランドは煽り、釣りで人を引き寄せる。関さばはなぜ値段が高いのか。魚ではなく人をひっかける釣りがうまいのだ。
「選択の自由」の退屈から人々を解放するために、社会は「自立的」に規制を強化しようとする。「こんなの買うと格好悪い」「関さばじゃないと自分が低く見られる」。こうして実は「選択の自由」の中にインドのカースト制度も真っ青の心の階級制度が自立的に成立する。
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