ディオゲネス症候群と動物化

finalventの日記[問題の背景がよくわかんないけど][物騒な話題の雑感]に出て来る東浩紀さんの「動物化」のこと、考えていたら昨日読んだ池田信夫blog:哲学者ディオゲネスに連想が飛んでしまった。
最初のきっかけは、ディオゲネス症候群(Diogenes syndrome)なんて言葉を知ってしまったこと。日本語的にはゴミ屋敷症候群というか、あの類の症状だ。
ディオゲネス犬儒学派の始祖であり、実際、「動物化」したような生活をしていたことも連想を誘ってしまった。
ただ、東さんの言っている「動物化」もディオゲネスの「動物化=犬化」も実際の動物とは直接関係ないというか、全く関係ない。比喩として使われているだけだ。共通しているように思えたのは、欲望の回路が他者を介しないで閉じちゃっている、というあたりだろうか。
ディオゲネスなど、伝説の人物のようなものだから、実生活はよく分からないが、元祖コスモポリタンで反国家主義者。その点、東さんに似ていなくもない。
ディオゲネスは、
「徳」が人生の目的であり、欲望から解放されて自足すること、動じない心を持つことが重要だと考えた。そのため肉体的・精神的な鍛錬を重んじた。
知識や教養を無用のものとし、音楽・天文学・論理学をさげすんだ。

とあるが、欲望から解放されて自足するなんてことは、文脈的にはかなり違っているはずの現代消費社会の「動物化」になぜか似ている。肉体的・精神的な鍛錬を重んじるのとは対極にあるはずの「動物化」なのになぜ似ているのだろうか。
ディオゲネスだって古代都市国家と言っても、所詮、都市遊民の消費者の1人に過ぎず、今の消費社会と同じ土台を持っていたということだろうか。働かなくても周りがめぐんでくれていたら、あえて他者に働きかける必要もなさそうだし。
つまり、「欲望」がなくなるということは、他者から規制を受けないのと同じことで、そりゃ権威も否定されるし、国家も否定されるだろう。いわば都会的ノマドというか。
本当のノマド遊牧民はまるで自由民のように見えるが、彼らは自由に移動しているわけではなく、むしろ自然環境という厳しい規制の下に移動を強いられているだけだ。行動が不自由だからこそ移動しているに過ぎない。しかも、厳しい自然環境で生き抜くために仲間内でも厳しい掟が守られなければならないだろう。
その意味で国家の下にある国民の方がはるかに自由な暮らしをしている。たとえ、専制的国家であっても。国家というのは「自由度」がある程度保障されているから成立しているとも言える。
ところが、都会的遊民となると、事情が全く違う。彼らは実質国家の保護の下に自由気ままな生活をしているだけだ。多分、これが本来の国家内的に消費動物化した「動物化」の意味だろう。
そのことはゴミ屋敷住人と原始人的生活が似て非なることに重なると思う。所詮、ディオゲネスの思想も都市国家内の都会的安逸から生まれたという気がする。犬は野生で生きるのは難しいし。
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