アイム・ノット・ゼア〜イ奄はネ申

imnt公式サイトトッド・ヘインズ監督、ケイト・ブランシェットリチャード・ギアクリスチャン・ベイル。まるで死ぬ瞬間に見るという自分の人生の巻き戻しの夢を映像化したようなボブ・ディランの伝記ドキュメンタリーのようなモキュメンタリーのような。
なぜか夢の入口と出口が「ダージリン急行」だ。そのココロは「列車に飛び乗る」。客車と貨物車の違いはあれど。雰囲気もそこはかとなく似ている。もう一つ「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」がセレブを見る視点から描かれているのに対し、こちらはセレブが見られる視点で描かれていることか。
“I'm not there”(僕はもういない)というタイトルにだまされるな。ボブ・ディランは、実は自分が世界に遍在していると信じているに違いない。そこにいない、ということは、どこにでもいる、ということだろう。ケイト・ブランシェットのロックスター・ジュードに「夢こそ確かなもの」と言わせているけれど、ディランは自分は夢であり、世界で一番確かなもので遍在しているものだ、と傲慢かましているようにも見える。つまり、「イ奄はネ申」意識だ。
実際、この映画はある意味、途轍もない傲慢が支配している。「世界を変えたい」と思うことも「歌で世界が変わるわけない」と言うことも、どちらも選良意識の塊だ。カオス対自分、という対立意識も自分だけはカオスの中にいない、という意識の現われだろう。そう考えると、ジュード(ユダ)がキリスト像の前で減らず口をたたくシーンはなかなかのものだ。
BBC記者とのやりとりも面白い。記者が「あなたは、政治に無関心になったのか、私に無関心になったと思わせたいかのいずれかだ」と言われて切れてしまい、記者をからかう歌まで作ってしまう。「あんたは何もわかっちゃいないのさ」と毒づく。結局、分かっているか分かっていないかが、彼の絶対の価値尺度であることを自白してしまっているのが痛いところ。本音は多分、自分は神だと思われたい、だろう。そこまで思わないと「ファシストを殺すマシン」からボブ・ディランは誕生しなかったはずだ。
6人のマルチ・ディランが登場するが、存在感からいってブランシェットが実質主演。彼女の男形は予告編では違和感あったが、本編観ると全く違和感を感じない。男優でもこうも見事に表現できない艶がある。
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