パーク アンド ラブホテル

palh公式サイトベルリン国際映画祭最優秀新人作品賞。熊坂出監督、1970年代伝説のシンガー、りりィ初主演。梶原ひかり、ちはる、神農幸。しょぼいラブホテルの屋上にしょぼい公園作っただけで「アジール」だなんて、もったいぶられてもついていけんよ。監督のケツの青さを感じる。
アジールとは、歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」などを含む特殊なエリアのことを意味する。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」ということになる。現代の法制度の中で近いものを探せば「治外法権(が認められた地域)」のようなものである。(Wikipediaより)
普通に考えれば、ラブホテルの屋上に老人や子供が憩うなんて最初からアイデア倒れ。噂を聞いたPTAが黙っちゃいないだろう。たとえ憩っていたとしても、それには条件がある。59歳のホテル経営者艶子(りりィ)が社交的で近所の人たちと付き合いがよく世話好きなことだが、どう見てもその対極のタイプだ。公園で憩う人たちは、艶子と違和感があり、取ってつけたような存在だ。
百歩譲っても、だから何、で終了だ。そして本当に終了なんだからやりきれない。それをまあ16年も続けているなんて妄想の世界だろう。なのに「ここ、いいですねえ」て出演者に言わせるのは独り善がりの押し付けにしか見えない。「世間」とか「空気」とか日本的文脈に疎い外国では違和感を深みと勘違いしてくれても日本では通用しない。
16年と言えば、16年も同じ道を30歳半ばの主婦が体形維持のためにウォーキングして毎日歩数をノートしているなんてことも有り得ない。どうしてこの人、老人でもないのに引越しもせずに変化のない生活を続けてきたのか。何が何だか分からない。有り得ないことばかり見せ付けて、これが人生です、なんて訴えられても現実感がなさすぎて困る。かといってファンタジーもないから、どうすればいいのやら。
大体、かなり前に死んだ分かれた夫の「遺体を取りに来てください」なんて、たまらない。まさかミイラじゃないだろうから「遺骨」だろう。ああ、どうだったのか、と納得させたいのかもしれないけれど、それがどうして公園なのか、納得できない。
精子になりたい」だのエントロピーだのというただ場違いなだけの台詞を吐く20代の女性も、キャラクターとして滑っている。不妊症だから、孤独な初老のワケアリ女性オーナーと傷を舐め合える仲になった、というのも、あまりと言えばあまりだ。ワケアリだけで押しまくられても迷惑だ。
のっけから出て来る銀髪家出少女、カメラが必要以上に追いかけまくり、映像が不愉快に不必要に揺れて目が疲れる以上の効果はない。今流行のハンディカメラのリアリティとでも言いたいのだろうか。
結局、公園はアジールとしての聖性を帯びることなく終わってしまう。それを「再生」と強弁するのはあんまりだ。
うらぶれた、ただうらぶれたりりィ、それだけがこの映画の見所というのじゃ悲しすぎる。
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