三島由紀夫は「内的真実」など信じてなかった

地を這う難破船:合理ゆえに我信ず 人には内的真実があり、内的真実に即した個人的な世界の記述がある。そして、その記述は人間の内的時間すなわち歴史意識に即して合理的である、と。その記述を不合理と考えるなら所謂ロマン主義です、たとえば三島由紀夫のような。そして三島は最後となった作品においてそのことを超克しようとしました。結果は、たぶん最後となったことが示している。
長文の割に意味不明瞭なところがあり、結構読みにくいので推測をまじえて書くしかないのだけれど、これは三島由紀夫に対する誤解ではないだろうか。
最後となった作品」とは無論「豊饒の海」のことだろう(まさか「檄文」ではないだろう)。
豊饒の海」は夢と輪廻転生の物語で、4巻の主人公たちが20歳までに死に転生してバトンタッチするかの如く生き続けるという物語だ。推測するしかないが、sk-44氏は、こんな有り得ない輪廻転生や唯識哲学を三島の「内的真実」と思っておられるフシがある。
しかし、4巻を通読すれば分かるように第4巻「天人五衰」の転生の主人公は偽者として最終的に否定されている。とどめとしてご門跡に第1巻「春の雪」の主人公清顕を「知らない」と白を切られている。つまり、輪廻転生も唯識哲学もことごとく完膚なきまでに否定され、もはや「その記述は人間の内的時間すなわち歴史意識に即して合理的である」ことさえ完全否定されている。
では三島は「豊饒の海」で何を描いたのかと言えば、己のリアルな現実であり、具体的には片思いのままで終わった失恋物語という形式を取っている。「春の雪」は表面上は悲恋の形式なのだけれど、実はそうじゃない(参照)。映画版「春の雪」はこの点全く無視されていて、靖国と「春の雪」で不満も述べたけれど、第2巻「奔馬」だって天皇への片思い・失恋の物語であり、第3巻「暁の寺」も全巻を通しての本来の主人公本多繁邦の文字通りの片思い・失恋の物語だ。というか全巻本多の片思い・失恋の物語だ。
そんな最後の作品を書いた三島が「内的真実」なぞ信じていなかったことは明らかだろうし、ましてや超克しようなどと思うほどおバカではないのだ。むしろ、いかがわしい徹底した「内的真実」なるものの否定がこの作品の一貫したモチーフであり、後は何もないのだ。「天人五衰」末尾の、
この庭には何もない。記憶もなければ何もない ところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
というのは、そういことだ。
あまり知られていないようだけれど、三島由紀夫の最後の言葉というのは「檄文」でも市谷での演説でもなく「限りある命なら永遠に生きたい」という部屋に残されていた走り書き。これ、そっそかしい人は「転生して永遠に生きたい」と解釈してしまうのかもしれないけれど、そんなことは当然なく、「肉体は有限だが文は永遠」という意味。その永遠の生を与えたかったのは他ならぬ「豊饒の海」という作品ということになる。
「武士として死にたい、文学は捨てた」という三島の言葉に騙されてしまいがちだろうけれど、実際は逆でちっとも「文学」は捨ててない。そうでないと、あの作品の末尾に「11月25日完」なんてわざわざ書くはずもない。
どうもいまだに三島由紀夫は誤解され続けているようだ。「単純に言おう。この四人、伊丹を除けば、死後の生を確信していた。三島についてはあっけらかんとは書いてないが、三島の死んだ日は彼の生誕の四十九日まであるように再生を確信していた。より正確にいうなら、そういう神秘体験があったのだと自身に納得させて死んだ」(極東ブログ)というのもその類で、死後の生を文字通りに三島が確信していたなんて悪い冗談としか思えない。
あえて分類すれば三島の死というのは失恋自殺の類と思われ、彼の忌み嫌ったとされる太宰治にだんだん近づいて来るのだけれど、決定的に違うのは自殺する原因になった相手。失恋の相手は誰かと言えば、物語では女性、天皇とかの形で象徴されているけれど、最終的には世界、ユニバースということになる。
ところで、ロマンも現実ですよ。世界、ユニバースですよ。
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