ブラインドネス

blindness公式サイト。原作はノーベル文学賞作家、ジョゼ・サラマーゴの「白の闇」、フェルナンド・メイレレス監督。ジュリアン・ムーアマーク・ラファロ伊勢谷友介木村佳乃ダニー・グローヴァーガエル・ガルシア・ベルナル、サンドラ・オー。何か頭と尾は立派だが、中身は不味い鯛を食ったような気分。かの大期待外れ作「ミスト」の二の舞になる予感はあったが、「アイ・アム・レジェンド」と「ハプニング」の良い部分が加味されていて何とかそれは免れた。
今年はなぜか失明物がやけに多い。「アイズ The Eye」、「ICHI」、「三本木農業高校、馬術部〜盲目の馬と少女の実話〜」、「山のあなた〜徳市の恋〜」。まあ、馬の場合は置いといて「ミスト」だって、ある意味失明物に近い。人間の最大のコミュニケーション手段の喪失による認識ギャップ、もしくは宮台真司先生風に言えば人間同士相互に孤立化する島宇宙化なんて理屈になるんだろうか。登場人物は皆名無しさんというのも暗示的。社会学的にはゲゼルシャフト(利益社会、機能集団)のみで、ゲマインシャフト(共同体、基礎集団)の喪失=失明ということだろうか。
イントロでアップされる交通信号機。信号は見られるために存在する筈だが、だんだんそれが目に見えて来る不思議。まるで信号機に見られているような感覚。その目は誰からも見られなければ失明してしまうのだけれど。
突然、伝染性失明がアウトブレイクし、社会が解体する。最初の発症者は日本人(伊勢谷友介)。どうも伊勢谷と木村佳乃の日本人夫婦の役割は、「最初」ということにあるようだ。この映画のモチーフがコミュニケーション不全による社会崩壊とするなら、この夫婦だけは事務的(機能集団的)な会話を除いては夫婦以外の人たちと英語で会話せず、ほとんど夫婦同士で日本語での会話しかしていないことからも伺える(日本語の会話が本来なら英語字幕になるはずなのに日本語字幕になっていたけれど、ひょっとして外国放映版でも日本語字幕になっていたら手が込んでいるが、実際どうなんだろう)。そのことは木村がdirectionの意味を総合病院の方角と勘違いしたのを眼科医(マーク・ラファロ)に総合病院に渡す説明書のことだと教えられるという会話にも現れている。
そもそも、木村は他のメインな女性たち、ジュリアン・ムーアらが堂々と乳房や全裸を晒している中で、唯一最後までガードを崩していないという点でも“裸の付き合い”が出来ておらず、そのこと自体が映画のメインテーマにつながっている。
その後の眼科医の妻(ムーア)との会話で、夫は謎の病気について通常の失明なら暗闇になるのに視界が白濁するだけなのでagnosia(失認症)の亜種ではないかと推測するが、妻はagnostic(不可知論者)とかignorance(無知)とかに関係あるの、と聞き返す場面があるので、かなり認識論を踏まえたストーリーだ。発達心理学でも物を物として認識できなければ、無意味な光の束ぐらいにしか見えないようだ(参考:「赤ちゃんは世界をどう見ているのか」とか)。つまり、情報は溢れていても認識能力がなければ「白の闇」という盲目になるだけだということ。
この夫婦の会話のオチは夫が「タルト美味しかった」と言って妻に「ティラミスよ」と訂正させられるところ。「ティラミス」という概念を知らない夫には「タルト」にしか見えないという言語学的コミュニケーションギャップをユーモアで表現されている。
映画は収容所に移ると、中だるみ。唯一感染しない眼科医の妻の反転した孤立感、元々盲目だった男の英雄化まではいいとしても、馬鹿で野卑の独裁にはちょっとついていけない。本当の万能の女(目)神、目が見える妻ならどうにでもできるではないか。こういうのは映画で見せられるとどうも白ける。
失明したことで回復したと思われる共同体、ムーアの孤立からの解放と戸惑い、他の患者たちの希望の光を残してのラスト。ここは余韻があってなかなかいい。
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