「太陽と鉄」と「日本語が亡びるとき」

太陽と鉄17世紀のフランスのモラリスト文学者、ラ・ロシュフーコー箴言:太陽も死もじっと見詰めることは出来ない
Espresso Diary@信州松本:水村美苗の「日本語が亡びるとき」。 に紹介されていたのを読んで、思いついたのだけれど、その不可能に挑戦したのがこの「太陽と鉄」。38年前の本日、自決した人の著書だ。
「太陽と鉄」って一見すると、太陽で日焼けした逞しい肉体というイメージになりがちだけれど、実は「太陽」と「鉄」はポジとネガの関係にある。三島の小説「」には、
少年のころ、一度、太陽と睨めっこをしようとしたことがある。見るか見ぬかの一瞬のうちの変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だった。それが渦巻きはじめた。ぴたりと静まった。するとそれは蒼黒い、平べったい、鉄の円盤になった。彼は太陽の本質を見たと思った。
という「太陽と鉄」のタイトルの由来とも思える件がある。「鉄」は「太陽」のネガ焼きなのだ。「鉄」は逞しい肉体などではなく、「生=太陽」の本質、「死」ということになる。
なんと三島は「剣」で、太陽も死もじっと見詰めることが出来た
と言い張っているのだ。
生れたときの光景を見たことがある。(「仮面の告白」)
と言い張った三島ならではだ。
「太陽と鉄」は言わば生と死の境目としての三島の自意識を綴ったもので、もう内と外の境界は崩壊し、最終的なその破壊としての自決へと向かっているようだ。
本書には三島が航空自衛隊の当時の最新鋭超音速戦闘機F104の搭乗体験も記されている。一部では三島は飛行機嫌いと言われていたが、それは旅客機という「日常性」の中の飛行機で墜落事故に遭うのは悔しいという意味で、例外的にリオデジャネイロの夜景を航空機から見た時、死んでもいいとエッセイに書いている程度だ。F104は非日常的な乗り物で三島ははしゃぎまくり、
この銀いろの鋭利な男根は、 勃起の角度で大空をつきやぶる
なんて書いている。「鋭利な男根」を「剣」に置き換えれば、答えは出てしまう。
で、最近の話題の本「日本語が亡びるとき」。未読なのだけれど、三島は
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口もきく気になれなくなっているのである
(「果し得ていない約束」)
と記しており、「日本語」と「日本」との違いはあれど、実質的には同じことを言っているように思える。日本語がなくなれば、地理学的日本は残っても、「日本」はなくなるだろう。
もっとも、新しい日本語はその後もどんどん生産されていて、文法的骨組みはともかく、日本語と非日本語の境目もなくなってきていて、柄谷行人日本近代文学の起源」ではないけれど、言文一致ならぬ日英一致文体のごときになりつつあるようにも思える。
ちなみに最近、田母神俊雄航空幕僚長航空自衛隊を応援するアパグループ首脳をF15に搭乗させたということがスキャンダルになったけれど、自衛隊体験入隊した三島も優遇されて搭乗体験できたわけで、伝統は今も続いている。
一般Clickで救えるblogがある⇒人気blogランキングブログランキング・にほんブログ村へ