田母神憎けりゃテスまで憎い

最初の陸軍大将であった西郷隆盛は、そうした「分捕り合戦」を「野蛮」と呼び、誤ったことだと認識していたのである。だから、西郷をはじめてとする明治の元勲も、「それは、不味いことだ」と想っていたとしても、それは不思議なことではない。ただし、その一方で、「このままでは、自分がやられる」という切迫感もあったはずである。だから、「生きるために、道徳上、誤ったこともやった」というのが、正しいのであろう。それを何故、平成の知識人は、「過誤はない」というのであろうか。まさか、西郷が「自虐史観」に毒されていたなどと吼える御仁は、いないであろう。(雪斎の随想録過去に「潔癖性」を求める心理)
そりゃあ、征韓論の中心人物である西郷隆盛を「自虐史観」に毒されていたなどと吼える御仁は、確かにいないであろう。
征韓論明治維新後すぐに論じられているから、「このままでは、自分がやられる」なんてものじゃなく、出遅れを取り戻して欧米に追い付けが実態であったろう。「分捕り合戦」を「野蛮」と呼び、誤ったことだと認識していたのであるなどというのは、別に西郷が道徳的であった証拠でもなんでもない。そんな保守論壇風なぬるいこと言っていたら苛烈な時代で頭角など表せなかっただろう。最近、西郷が武力的な征韓論主唱者ではなかったという本も出ているようだが、彼が帝国主義という世界の潮流に前のめりに積極的だったことは明らかだろう。
実は、これ全て田母神俊雄氏を腐すネタにされているのだから、訳が分からなくなる。
更に映画「テス」まで持ち出し、
映画『テス』の原作は、トーマス・ハーディの代表作『ダーバヴィル家のテス』であり、「純粋な女」(a pure woman)という副題が付いている。この副題には、「純粋な女」と「愚かな女」の二重の意味がある。田母神論稿の風景と重ね併せれば、誠に示唆深い。
には失笑するしかない。なぜなら、
『過ちを犯した』という告白は、嘘だということにしてもらわなければ困る」というようなものであろう。テスを棄てた牧師の息子と同じ態度なわけである。
と書いている以上、牧師こそがa pure manであり、「純粋な男」と「愚かな男」の二重の意味でなければならないはずだ。
これじゃテスが冤罪だよ。ちなみにこの物語は、没落貴族が復活を願って娘のテスを荘園領主に売り、テスがレイプされて捨てられた後、若い牧師と真実の愛に生きようという物語。牧師ともその後よりを戻すが、領主を殺して悲劇的人生を終える。どっからどう見ても「愚かな女」ではない。世間知らずの馬鹿女という意味ならは余りに下品な解釈だろう。ナスターシャ・キンスキーまでダシに使うというのは汚らわしい。
本人が最初から「戯言」と断ってはいても恐ろしく愚かな戯言である。ましてや田母神論稿とは100%無関係な頓珍漢であることは言うまでもない。正に愚かしい論壇の風景である。
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