インターネットは宇宙のように寂しい世界だ

スポンタ通信2.2:多層なレイヤーの中で、全体最適化は存在できる…。

世の中には、唯物論者と非唯物論者がいる。それが現実であり、どちらか一つになることなどない。幽霊を見える人もいるし、幽霊が見えない人もいる。現実しか見えない人もいるし、現実を信じない人もいる。そういうさまざまなレイヤー・対立軸が存在する。対立軸の中でのバリューも多様だろうし、対立軸どうしも様々な対立軸・評価軸に巻き込まれている。
そういうものが、総覧でき・一覧でき・対照できる。それがインターネットが可能にしたことである。(byスポンタ中村さん)

前エントリ全体最適のパラドックスへの反論か補足説明かよく分からないけれど、インターネットによる統一理論でも打ち立てようとなさっているのだろうか。
まず、インターネットで総覧・一覧なんてできない。喩えてみれば、宇宙は夜空に広がっているが、いくら晴れていても総覧できない。いくら高解像度の電波望遠鏡をもってしても総覧できない。情報を受け取る側の観察者側の受容能力に限度がある。しかも、目の前の夜空は刻一刻変化している。
インターネット宇宙も同様で、「興味」という高解像度の電波望遠鏡をもってしても、総覧できるのはごくごく一部に過ぎない。だからどうしても目立つ星がますます目立ち、後はダークマターのまんまで存在しているのかしていないのか分からないくらいinvisibleだが、インターネット宇宙の重力バランスには確実に貢献している。けれど、全体を見渡すという立場に立てば、そこにあるのは、ほとんどがらんどうのような空虚な世界が広がっているだけだ。
どうもスポンタさんには時間という制約を無視しているきらいがあるように思える。インターネット宇宙に「自我」ならぬ「客我」でも生まれるとでもいうのだろうか。
けれど、それは前エントリで指摘したように、

全体最適」も「全体最適」の顔をした「局所最適」の一つに過ぎないことになる。

ということだろう。例えばblogosphereと言っても、無数の「村」が散在し、重複し、リンクだのTBだのでほとんど訳分からない隘路でもって多少つながっているだけで、膨大な局所最適の乱舞があるだけだ。
ある場所にはキーワードだのタグだのという「市場」があり、そこでは相場形成もされてはいる。けれど、どこに「全体最適」の至福なんてあるんだろう。どこまで逝っても、最終解脱はないんだよ。