「成熟社会」という罪な言葉

今日のテレビ朝日サンデープロジェクト」をボンヤリ見ていたら、非正規雇用社員、派遣切り問題でレギュラーコメンテーターの高野孟氏が「高度成長の頃は終身雇用も成り立っていたけれど、成熟社会の今では・・・・」というお約束事のような話をしていた。この「成熟社会」っていまだに使われているようだけれど、その意味内容ははとっくに空洞化しているのに、ただ言葉だけが無自覚に使われている。
この言葉が日本で流通し始めたのは1973年に翻訳された「成熟社会―新しい文明の選択」(デニス・ガボール)からだろう。今ではアマゾンで1円で買える古書なのだが、本の値段の凋落振りとは裏腹に「成熟社会」という言葉はいまだにその価値は暴落していないようだ。この10年ぐらいでも、
格差社会から成熟社会へ」(2007年)
成熟社会の教育・家族・雇用システム―日仏比較の視点から」(2005年)
コレクティブハウジングで暮らそう―成熟社会のライフスタイルと住まいの選択」(2004年)
成熟社会の病理学」(2003年)
都市農地の市民的利用―成熟社会の「農」を探る」(2003年)
町家型集合住宅―成熟社会の都心居住へ」(1999年)
イギリスに学ぶ成熟社会のまちづくり」(1998年)
まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方」(1997年)
成熟社会のニードロジー―ニーズ志向社会宣言」(1997年)
高度成熟社会の人間工学」(1997年)
と本のタイトルにはいまだ重宝がられて使われている。何か死屍累々たる感がある。確か21世紀はとっくに成熟の時代に突入していたはずだが、今本心からそう思っている人なんているのだろうか。
ご本尊のデニス・ガボールの定義では、
人口および物質的消費の成長はあきらめても、生活の質を成長させることはあきらめない世界
なのだけれど、いまや生活の質どころではない。そして、いまだ「未成熟社会」の特徴である経済成長による景気回復が叫ばれている。その景気対策はいまだ物質的消費の成長だ。さらに代用品として「経済成長と両立する低炭素社会」なんてキャッチコピーまで流行っている。思えば人間は懲りない。
ちなみにこの番組の次のコーナーは、
共産党が元気!?
不況の荒波の中、日本共産党が元気だ
共産党員だった小林多喜二が書いた戦前のプロレタリア文学蟹工船」のブームや、労働環境の悪化で、共産党に入党する若者が増えているという
海外のメディアも注目し、取材が相次いでいるという
≪出演≫志位和夫共産党委員長)

なのだから、まるでウソのような冗談のような現実だ。まさか、「成熟社会」が「共産主義社会」を目指すなんて思わなかった。
最大の誤算は、出版された1973年当時、同時に変動相場制に移行した後訪れた本格的なグローバル経済を読めなかったということだろう。固定相場制なら内々に「成熟」したのかもしれないが、世界的にオープンに経済が展開することで「成熟」などという言葉は浮世離れしてしまった。世界全体から見れば、「成熟」など遠く離れた世界で、国境が低くなれば、「成熟」は拡散して流産する。実は「成熟社会」と思った途端、ご破算となることを準備していたのだ。
「成熟社会」というのは生物学からの安易な借用なのだけれど、生物の個体に見られる成長⇒成熟というお決まりのコースを許すほど世界はまだ「成熟」していない。恐らく今後も世界が「成熟」することはないだろう。成長と破壊の繰り返し。インターネットが「成熟社会」だなんて言い出す人もいるかもしれない(もしかしたら誰かが既に言っていたかもしれない)が、もういい加減「成熟社会」を卒業する程度には成熟するべきだ。
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