希望も絶望もない国の東京五輪招致

池田信夫blog:希望を捨てる勇気より。

こういう状況は若者の意識にあらわれている、と城繁幸氏はいう。それは「希望のなさ」だ。かつては誰にでもチャンスはあり、一生懸命働けば報われるという希望があったが、もう椅子取りゲームの音楽は終わった。いま正社員という椅子に座っている老人はずっとそれにしがみつき、そこからあぶれた若者は一生フリーターとして漂流するしかない。だから彼らは意外に「正社員になりたい」という願望をもっていない。気楽なフリーターに順応すれば固定費も少なく、それなりに生活できるからだ。
この状況から「派遣村」のように労働組合と連帯しようという方向と、赤木智弘氏のように「戦争」を求める方向の二つにわかれる。前者のほうが建設的にみえるが、実はその先には何もない。彼らが連帯を求めている労組は、椅子にしがみついている人々だから、同情して仮設住宅を世話してくれるが、決して席を空けてはくれないのだ。この椅子取りゲーム自体をひっくり返すしかない、という赤木氏のアナーキーのほうが本質をとらえている。
しかし残念ながら、若者にはその力はない。かつてのマルクス主義のような、彼らを駆り立てる「大きな物語」が失われてしまったからだ。

赤木智弘氏は数少ない「絶望」を抱えた人だろうし、あるいは秋葉原で無差別殺人を犯した加藤藤智大容疑者も絶望していたのだろう。絶望は強烈な怒りと悲しみを生み、それが歴史を変えるエネルギーになる可能性も秘めている。偶然にも2人とも「ともひろ」という名だ。
けれど、絶望している人はやはり少数派なのだろうか。最近はやりの草食系男子と呼ばれる人々は希望もなければ絶望もない、というイメージがある。「希望」など面倒臭いもの持たなくても、日本は相対的に豊かで快適な国であることも事実で、希望さえ捨てれば自殺者も減るかもしれない。
現代に蘇った鴨長明と言うべきか、考えれば日本史にはその類の人間は普通に見受けられた。彼らは取り立てて新しいタイプの人間ではないのだ。
だとすれば、向上心ギラギラ、「明日は今日よりよくなる」という希望いっぱいの人生観自体が歴史的には少数派だったのかと思えば、そうであるような気がする。明治維新以降から1990年のバブル崩壊までが例外的に上昇志向丸出しの日本だったと言えないのか。
以前にも「日本はゼロ成長でも充分やっていける」なんて書いたけれど、歴史的に言えばゼロ成長は普通にノーマルな姿だ。衰退でもなんでもない。
「成長」などという強迫観念は新興国に任せておけばいい。昨日から公開された映画「スラムドッグ$ミリオネア」などは希望と絶望という両極しかないようなインドの世界を描いている。映画そのものはB級映画にしか見えなかったけれど。
今日、東京五輪招致現地調査のIOC記者会見が行われたけれど、オリンピックのマーク五輪は五大陸を表したものなのに、オリンピックが始まって100年以上経つというのにいまだアフリカ大陸と南米大陸では開催されておらず、オリンピック自体がいびつになってしまった。
実はオリンピックほど「成長」をシンボル化したイベントはない。「より速く、より高く、より強く」というのは経済成長のスローガンそのものだった。
その意味で、いまや日本ほどオリンピックが似合わない国もない。石原慎太郎都知事はまだ高度成長期の過去の夢を追い続ける老害以外の何者にも見えなくなった。「永遠の太陽の季節」などあるわけないだろう。「希望を捨てる勇気」のない人って、実は石原慎太郎氏のことじゃないだろうか。
素直に考えれば、リオデジャネイロだろう。アジアで次に開くならインドだろう。でも、世界は素直でなくなっているから今度もリオは落選するかもしれない。
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