すべての言論は「騒ぎすぎ」に通じる

情報温暖化時代、全ての言論は騒ぎすぎ化する。なぜなら、騒ぎ過ぎないと、情報バブルの中で生き残れない。というか目立たない。目立たないと話題にならない。例えば、「日本最初の新型インフルエンザの疑い」で深夜会見し、挙句、「期待外れ」に終わると「騒ぎすぎ」バブルが起きる。新型インフルエンザでなかったのに「期待外れ」とは何事かという向きもあるかもしれないが、事実、人々は期待の祭り状態にあったのだ。
期待外れに終わると、そのエネルギーは巻き戻しで「騒ぎすぎ」の騒ぎすぎという派生的バブルが起きる。
マスコミやネットでは「騒ぎすぎ」がデフォルトで、それ以外の「騒ぎすぎ」でない「騒ぎ」は騒ぎでなくなる。言わばグーグルで5位以内に検索にかからないのは存在しないのと同じ、というのと似たようなものだ。
玄倉川の岸辺:「騒のぎすぎ」の害

マスコミやネットで見かける「騒ぎすぎ」論者の多くは騒ぎすぎという言葉を投げつけるだけで、何と比較してどう騒ぎ「すぎ」なのか説明しない。これでは「騒ぎすぎ」と言いたいだけじゃないのか、実は何も考えてないんじゃないか、と疑ってしまう。

この「すぎ」というのは、一種の強調法だ。つまり、「騒ぎすぎ」とは具体的な比較対象があるわけでなく、単に「実体に基づかない大騒ぎ」という意味だ。つまりバブル化した祭り状態のことを言う。比較対象があるとすれば「本来あるべき実体に基づく騒ぎ」ということになるだろうか。
ここで言う「騒ぎすぎ」の対象は、本来、厚生労働省の対応についてなのだろうが、それを「騒ぎすぎ」たらしめているのは、マスコミ、ネットだ。
finalventの日記:「騒ぎすぎ」が問題ではなくて

小沢氏秘書逮捕……オモテの金で逮捕は前代未聞だし、それをやるなら自民党壊滅
北朝鮮人工衛星……テポドンよりノドンが問題
定額給付金……普通に減税
高速土日千円……ETC普及とその他目眩まし
草薙君公然猥褻……保護が妥当
新型インフルエンザ……パンデミック認定と強毒性の認識は別。
 個別の問題にどれだけ基本的・背景的な知識があるかという問題。

「騒ぎすぎ」は、そういう知識・理屈で発生を食い止められるもんじゃない。また食い止めるべき問題でもないだろう。言論空間では、きわめて市場経済的に生起する問題で、事実、知識、理屈よりも「騒ぎ期待」で発生するものだ。似たような現象は株式市場では日常茶飯事。毎日が「騒ぎすぎ」のようなものだ。