西部邁氏が横文字大好き人間である理由

文藝評論家・山崎行太郎政治ブログ『毒蛇山荘日記』西部邁は、何故、バークとオークショットを必要としたのか?

西部邁は、そこで、その道具として、保守思想家、保守理論家としてのエドモント・バークとオークショットを持ち出してくる。言うまでもなく、福田恒存江藤淳にとっては、エドモント・バークもオークショットも、あるいはトクヴィルも、さして重要な思想家ではないが、おそらくほとんど問題にもしていないと思われるが、西部邁にとっては、それが違うのだ。転向保守の悲しさで、西部邁は、保守や保守主義というものを定義づけ、理論化し、体系化し、概念化した保守理論に基づいて、自らが保守であることを証明しなければならないが、そのためにはエドモント・バークもオークショットも、便利な道具なのである。

このあたりを読んで思い出した。西部邁氏の文章ってやたら横文字が多い。別に横文字が多いから保守にふさわしくないとは言いたくないのだけれど、それにしても、いつも横文字が多過ぎると感じていた。
ひところ、西部氏がよく使っていた横文字の例として「ネーションフッド」(nationhood)というのがあった。「国家的独立性」とか「国家・国民的地位」という意味だけれど、それを西部氏は「国柄」と訳していた。それなら、こなれないnationhoodよりもっと一般的なnationalityとでもすればいいと思うのだけれど、手垢のついた言葉はお嫌いらしい、と思ったものだ。
山崎氏は、強迫的理論化と仰っておられるが、案外、そういうものは無意識に文章に現れるものだと思う。理論化する衝動に駆られるとどうしても「日本」に不似合いな横文字がやたら出て来る。横文字の方が便利だし、ごまかしもきくからだろうか。似たような例として、石原慎太郎元作家・現東京都知事。この人の文章もやたら横文字が多い。
三島由紀夫の文章の場合はやたら難しい古典語が多いが、それは三島が幼少の頃から日本の古典に親しんでいたためで、日本へのこだわりも筋金入りだったことがよく分かる。実はそれでいて三島の文章は西洋的に論理明晰で今も世界で通用している。けれど、西部氏はいくら横文字並べても悲しいかな国際的には通用しない。