環境主義=社会主義という陳腐過ぎる神話

環境保護という名の社会主義 - 『環境主義は本当に正しいか?』★★★☆☆(評者)池田信夫

さらに大きな問題は、排出権取引などの制度を実施するには、企業に排出権を割り当てる統制経済が必要になることだ。この点でも、環境主義社会主義であり、エネルギー産業を国営化し、エネルギーの浪費を生んで人類の未来に禍根を残すおそれが強い。生涯の大部分を共産圏で暮らしてきた著者の「世界を社会主義に戻してはならない」という主張には重みがあるが、社会主義の恐さを知らない自称エコロジストにどこまで伝わるだろうか。

こんなナンセンスで陳腐な神話をまだ信じている人がいるのだ。

環境主義社会主義

なんてのはもう20年前から言われていた。ベルリンの壁が1989年崩壊し、1991年ソ連が崩壊した直後の1992年に地球サミットリオデジャネイロで開かれたことから、「社会主義に代わる新しい対立軸として環境主義が衣を替えて現れた」というわけだ。いかにも俗受けしそうな説ではある。実際に地球温暖化問題がクローズアップされたのはベルリン崩壊前の1988年のジェームズ・ハンセン博士の資本主義の殿堂であるアメリカの上院での証言なのだが、こういう時系列は全く無視されている。
しかし、そんなことはもちろん出鱈目な話で、もし社会主義者環境主義者なら社会主義圏がもっとも環境保護の進んだ国々であったはずだ。現実は逆で、ベルリンの崩壊が起きた時、東ドイツの車は排気ガス出しまくりの燃費の悪い車だった。ソ連も中国も公害垂れ流し。およそもっとも環境主義に縁のない国々が社会主義圏だった。
そんな国のヴァーツラフ・クラウスチェコ大統領が今更環境主義を批判するなど片腹痛い。単につまらない俗説を受け売りしているだけなのだ。クラウスはミルトン・フリードマンを信奉したそうだが、確かに効率至上主義的なフリードマンに憧れるのは反動として分からないまでもない。およそ若いころ、社会主義の洗礼を受けた人間は、反動として真逆のものを無批判に肯定するものだ。これは日本にも当てはまり、過激な自由化論者というのは、大抵は若いころは社会主義の過激派だった。ベクトルが真逆に変わっただけでメンタリティは学生さん時代のまんまちっとも成長していないのだ。
ちなみに大統領が書いた本だから傾聴に値するのなら、元米副大統領のアル・ゴアだって傾聴に値することになる。ところで、アル・ゴアってどこからどう見ても社会主義者に見えないのだが。共通するのは「不都合な真実」もクラウスの本も、環境関連本としては二流だということくらいなものか。
フリードマンのような“効率主義者”からすれば確かに環境主義は政敵である。環境主義は“効率”を阻害する因子だからだ。一体何のための“効率”かはさておくとして。
ところで、池田氏自身のブログでは

これが昂じると、「地球を守れ」という倒錯したキャンペーンになる。冷静に考えればわかるように、人間が自然の中心として地球を守るという思想は、天動説にも等しい。

と人間中心主義を批判しているわけだが、実は環境主義の原点は反人間中心主義で全く矛盾している。
環境主義

自然は自然そのもののために保存するのであり、人間の利益は目的ではないとする考え方。環境主義の主眼は、人間中心主義からの脱却にある。
1960〜1970年代にかけて、環境思想の枠組みが、自然保護から環境主義へと大きく転換されたといわれている。

人間中心主義の極北たる社会主義になぞらえられたら環境主義者もいい迷惑だろう。
そもそも環境主義が生まれたのは資本主義圏であって社会主義圏ではない。排出権取引は1960年代にアメリカで考案されたものだ。当初は公害ガス削減のために研究されていたものだが、それを二酸化炭素の排出取引に応用されただけだ。二酸化炭素硫黄酸化物のような公害ガスではないので応用は疑問視されているが、それは置くとして、排出権取引の名の通り、これは市場メカニズムの応用に過ぎず、およそ社会主義とは真逆のシステムだ。それを言うに事欠いて統制経済呼ばわりするのだから、噴飯物だ。これが統制経済なら、ありとあらゆる税金も政治制度も全て統制経済だから池田信夫氏はアナルコ資本主義者ということになる。
しかし、無政府資本主義なるものはそれ自体が自己矛盾的な観念で、「統制」なくして資本主義も自由主義も成り立ちえないのだから。
実は“効率至上主義”やアナルコ資本主義と社会主義こそ双子の兄弟で、イデオロギーのためなら何を犠牲にしても構わないという思想なのだ。恐らくそのテーゼは「効率的経済成長のためなら地球を滅亡させても構わない」という、きわめてファシズム的テーゼに似通うものになってしまう。

問題は、地球を守るコストが非常に大きいことだ。

これも笑える個所だ。なぜ大きいのか計算不能なのになぜ分かるのかというツッコミは下らないからさておいて、地球を守るコストは非常に小さい。経済規模を縮小すればいいのだから。経済発展を所与の前提としているキリスト教イデオロギーに染まっているから「コストが非常に大きいことだ」という無根拠な前提が生まれるのだ。
これは言い換えれば効率全体主義で、実は非常に効率の悪い政治システムで市場経済に反しているのだけれど。効率のために効率あげられたら効率が悪くなるに決まっている。それ自体無意味だから。
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