浦上天主堂は再建されるべきでなかった

9日は長崎に原爆が投下された日。先日のNHK被爆当時の浦上天主堂の写真記録が紹介されていた。それは何か地中海あたりにありそうなギリシャ時代の遺跡のようでもある。
浦上天主堂

1958年(昭和33年)
被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結局は撤去され、遺構の一部は近隣の平和公園内に移設された。
浦上天主堂遺壁(爆心地公園)※貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情があった。
1.浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案するが、当時の長崎司教・山口愛次郎は、『天主堂の立地には、江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできない』という意思を決定した(浦上天主堂公式サイトにも同様の経過が記載されている)。
2.当時の長崎市長・田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。
被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に破壊撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されてしまった。一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の『原爆ドーム』(旧広島県産業奨励館)の様に爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えることが出来る遺物を残さなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコ世界文化遺産に登録されたこと等から、取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。

もし、廃墟のまま“原爆天主堂”となって残されていたら、広島の原爆ドームなどよりはるかにインパクトがあったろう。取り分け被爆マリア像は。なにせカトリック教会は世界に広がっており、世界のカトリック教徒に訴える力は原爆ドームの比ではなかったろう。
世界が注目し始めた今、とりわけ惜しいことをしたものだ。原爆ドームは国内的にはシンボルになっても世界的シンボルになるにはやはり弱いのだ。ただでさえ、長崎はどうしても広島に次ぐ二番手で被爆都市としても後塵を拝している印象がある。返す返すも貴重な歴史遺産を失ったものだとは思う。
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