千と千尋の神隠しは非実在青少年の物語なのか

宮崎駿の名作アニメ「千と千尋の神隠し」を初めてテレビ録画で見たのだけれど、主人公の千尋は娼婦なのだという説があることを初めて知った。
辿って行けば主な発生源は、
ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記:「千と千尋」はなぜ「湯女」なのか
らしい。

主人公は「湯女」として働かされるのだが、国語辞典でも百科事典でも何でもいい。「湯女」という言葉を引いて欲しい。
たとえば『日本大百科全書』にはこうある。
「温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のこと。一部は私娼(ししよう)化して売春した」
大辞林』にはこうある。
「江戸時代、市中の湯屋にいた遊女」、
『岩波古語辞典』だと「風呂屋に奉公し、客の身体を洗い、また色を売った女」。
「そういう見方もある」だの「そういう解釈もある」だのというレベルではなく、「湯女」とは「娼婦」を意味する名詞なのだ。

この人、散々辞書引いている癖に、辞書とは違うことを言っている。辞書は湯女∋娼婦と説明しているだけで湯女=娼婦とはなっていない。
当たり前のことだが、湯屋には遊女以外に色々な女性が働いている。千尋は風俗ぽい湯屋で働いていたことはその通りだが、娼婦はしていない。また湯屋が風俗ぽい場所なんてことはわざわざ大声で言わなくても大人なら分かる程度の話だ。
実際、千尋を案内するハクは10歳の千尋に大人の世界を見せてはまずいと疾風の勢いで通り抜けていて、そのために起きたつむじ風で遊女の裾がまくれかかるシーンを出してお色気を仄めかしている。
しかし、湯婆々は千尋にはそんな仕事させられないと暗に言っているし、実際やらせていない。

この映画の場合、両親が犯したのは飽食の罪だ。オイラはこれは、89年まで続いた戦後日本の高度経済成長と飽食、享楽主義のツケが、90年代から続く底なしの不況として返ってきたこと、それが女性の就職難につながり、風俗産業という苦界に身を投じる必要性が増している状況を象徴していると思う。

という見方もずれている。あの湯屋自体もバブル期を象徴しているのは明らかで、実際、バブル紳士のような大尽の神も出て来て、千尋に大金を与えようとするが、千尋は受け取っていないから売春などしていないのだ。宮崎駿がインタビューで性風俗を語ったからといってそれが直に映画に反映されているわけではない。あの当時、メディアでは宮崎に限らず援助交際など少女売春が一種のブームだった。
もし、売春がメインのテーマなら、むしろ幼児の性的虐待すらテーマになっているという解釈も可能だ。なぜなら、千尋は「小さい時、川に落ちたことがある」と言っており、それがこの物語のコアであることは明らかなのだから。そして、性的比喩として考察すれば幼児の性的虐待のメタファーということになる。すると千尋の相手ハクは非実在青少年になってしまいかねない。
そもそも河の神だって形状からし精子を連想させる。射精を連想させるシーンもある。解釈次第でもう何でもアリだ。性的側面を「神隠し=隠し味」とすれば、観る者は意識できなくても無意識のレベルでその奥深さを味わっている筈だ。
何でも解釈アリなのがこの映画の優れた点なのだから、やたらしたり顔で「オイラだけ知っている」と、どや顔されてもなあ。
ブログランキング・にほんブログ村へ