人間の制御は原発の制御よりはるかに難しい

前回のエントリー「大飯原発3、4号機は元々津波リスク低い」の、

あまり極端なことすると、まだ知られていない別のリスクがどこかで発生する。

についての再考。
一気に原発ゼロにすれば、確かに反原発派は勝利のおたけびを上げて無邪気に喝采するだろう。けれど、すぐに別のリスクに取り囲まれることになるだろう。
原発がなくても余剰電力がある? あったとしても、「遊び」の部分がなくなれば、どうなるのか? 断崖の上に突風が吹くことも考えずに立つようなものだ。
水力発電。豪雨でダムが決壊する恐れに対処が難しくなる。逆に大干ばつになれば、お手上げだ。
火力発電。原発と同じで地震が来れば、やはり停まるリスクが高い。
ソーラー電力、地熱発電風力発電、海洋発電。そもそも現時点では出力が少な過ぎて今後に待たなければならない。今更政府の無策を嘆いても仕方ない。
節電・省エネ? 人間次第。ところが、人間の制御は実は原発の制御より厄介だ。
皆が皆、清貧・高邁な人間なら可能かもしれないが、現実はそうじゃない。人生は限られ、限られた人生をできるだけ充実したものにしたいという欲望のエネルギーはある意味原子力以上に凄い。というか、遥かに凄くて気が遠くなるほどだ。そのことは本質的に人間の制御問題である地球温暖化問題が一向に制御できないことを考えればすぐ分かるだろう。
実際のところ、家電を例に取っても、省エネが進む以上のペースで家電の種類が増えている。身の回りを見渡せば、すぐ分かるだろう。人間の欲望の膨張志向は省エネや節電以上に凄いと言わざるを得ない。また欲望を否定しても制御できるものじゃない。
そんな欲張り人間を強制的に制御しようと思えばどうなるか。戦時中の「贅沢は敵」「欲しがりません勝つまでは」状態になり、一時的に高揚感はあるかもしれないが、揺り戻しがどこかで必ずやって来る。ダイエットのようなものだ。
譬えてみれば、原発一気にゼロというのは一気に電力源30%減だから、体重50キロの女性が一気に35キロにダイエットするようなものだ。医者だったら止めるだろう。ましてや関西電力管内だと原発依存率名目50%だから50キロから25キロに減らすようなものだ。今更関電をその線で追及しても始まらない。現実にそうなのだから。
もちろん体脂肪率(余剰電力)は見た目より多いのかもしれない。たとえそうであってもやっぱり25キロ減であることに変わりなく、体脂肪以外に、筋肉も他の内臓も血液も減らさざるを得ず、事実上半病人状態になるだろう。
体は複雑なシステムだが、人間社会も負けず劣らず複雑なシステムだ。システムがクラッシュすれば、原発以上の災厄に襲われる可能性を常に考えておかねばならない。無邪気に「原発ゼロ」にすればバラ色の日本には残念ながらなりそうにない。
現在稼働可能な原発は50基くらいか。大飯原発のうち1号機、2号機を廃炉方針にし、3号機、4号機を再稼働させれば50分の1が48分の3になる。脱原発を考える場合、分子の稼働中原発数を減らすことに目が行きがちだが、分母の稼働可能原発を徐々に減らすことはさらに本質的な脱原発だ。地球サミットからこの20年、自然エネルギーをさっぱり増やさなかったツケが回っており、分母はゆっくり減らすしかないのだ。
Clickで救えるblogがある⇒にほんブログ村 経済ブログへにほんブログ村 環境ブログ 環境学へ