全体最適という神様

思想というものは、そんなに変わらないものだ。時代によって意匠は変わるが、基本的な形態は変わらない。経済学者・経営学者、あるいは経営コンサルタントマーケティングな人々などが伝家の宝刀のように使いたがる「全体最適」なるものも、本来のシステム論からずれて己の主張の正統性を担保させる便利な用語として使われ始めているようだ。ちょこっと見回しただけで、原発再稼働を「全体最適」を錦の御旗にしたり、社長が部下の仕事をしかりつける時の自己正当化に使ったり。
結局、小さな印刷工場の全体最適化ならともかく、日本全体、世界全体を意思的に全体最適化するのは、所詮不可能であることを知らねばならない。
このようなゆがんだ「全体最適」は「神の代理人」という絶対的権威を奪おうという王権神授説に似ていて、言わばアダム・スミスの「神の見えざる手」を拒否する王権神授説のようなものだ。つまり、自分が「真の神の代理人」たらん、ということだ。
では誰が「全体最適」を決めるのか。「俺様」だ。「全体最適」という言葉を軽々しく使う人間は単に強い我欲の表明にほかならない。
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