科学論文のコピペは即盗作ではない

小保方氏論文:博士号取り消さず…早大調査委(毎日新聞)

さらに調査委は、小保方氏が「完成版」と主張する論文でも複数の不正を認めた。全5章のうち序章の約4500語が米サイトからの丸写しだったが、調査委は「博士号授与へ重要な影響を与えたとはいえない」と判断した。この規模の「盗用」を認めながら博士号を保持できるのであれば、国内外の早大への信用と権威は地に落ちるだろう。

「この規模」のコピペだと「盗用」って、量の多寡で盗用かどうか決めるのだろうか。このNIHのコピペ、ページ数で20ページ相当だそうだが、じゃあ2ページならOKとでも言いたいのか。
そもそも科学論文は文学作品ではない。文学作品の場合、小説にせよ、詩歌にせよ、文体や使われた言葉の文脈そのものがその作品の文学的価値を決定するので、同じことをすれば20ページであろうが2ページであろうが、2行であろうが即盗作、剽窃の疑義が呈される。
しかし、科学論文の場合、大事なのは文体でも何でもない。結論に論理的整合性、オリジナリティがあるかどうかだ。
序章は結論に至るまでの問題提起の前提を説明するためのものだ。前提を説明するためには既にその分野では常識化している概念や前提を呈示しなければならない。小保方晴子氏が序章を米国の教科書的サイトからコピペしたのはそうした既に結論が出ている科学的常識の部分だろう。当然、誰が書いても同じ説明になる。誰が書いても同じならコピペした方が時間の節約になる。
そんな教科書的サイトを引用(コピペ)したからと言って、その教科書的サイトをわざわざ参考文献欄に載せる必要があるか。あるわけない。文学作品でも誰もが知る故事諺を書いたからといって、引用文献に故事諺事典の出典を書かないだろう。小保方氏がコピペしたサイトは知的共有地のようなもので、共有地=コモンズなら誰もがコピペ自由な筈だ。恐らく小保方氏だけでなく他の研究者だってコピペしているだろう。
科学の世界では、たとえば円周率の小数点以下の数字は誰が計算しても同じ。極端に言えば、1+1は誰が計算しても2だ。そんなことで、「盗用」だの「不正」だのと騒ぐこと自体、滑稽だろう。膨大なコピペに圧倒されて脊髄反射で「不正」とするのはマスコミが文科系脳だからなのかもしれない。
同じことが早稲田大学大学院先進理工研究科における博士位論文関す調査委員会報告書で、について、

「インターネットにある画材と自分で書いた絵や文字を組み合わせて作成しました。なので、一部他者が作成したイラストを含んでおります。当時は、何の問題意識も持っていなかった」

と述べているのも、本音的には自然だ。ネット時代、こんな程度の画材、ネットにごろごろ転がっており、いちいち著作権がどうのと言うのは、時代錯誤だろう。
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