ギョーザ中毒事件で中国側の対日重視姿勢をアピールした毎日新聞

五輪成功目標の中国に配慮 ギョーザ問題解決、先送りに同意の日本(産経) 北京五輪の無事成功を至上命題とする中国側は、これまでに日中間の諸懸案の協議は五輪終了後に先送りしたいとの希望を伝えてきており、日本側も了承していた。食の安全という国民の関心事についても中国側の事情への配慮を続ける日本政府の「待ち」の姿勢が問われそうだ。
中国と言えば産経なのだけれど、全部読んでもいまいちしっくりこない。
などの懸案事項は「五輪が終わるまでは何もできない」というものだった。五輪開会前に問題がクローズアップされ、中国国内で政府批判が沸騰することを懸念したためだ。
東シナ海の問題は直に国益愛国心に関わるので分かるけれど、ギョーザ問題はちょっと筋が違う気がする。これは日中両国民が被害者なのだから、公表したからと言って、中国国内から政府批判が出ることは考えにくい。出てもかなり限定的で説得力持たないだろう。
今回、中国側が国内での中毒事件発生を認めた経緯には「回収されたギョーザを食べているなど不自然な点がある。早期の問題決着を急いだ中国政府が無理やり解決のためのストーリーを書いたのではないか」(日中外交筋)という疑問も出ている。
ならば、中国側は早く日本政府に公表して欲しかったことにならないか。それを真意を計りかねグズグズしていたので、北京五輪直前に早く出せとサインを送ってきたとか。仮に北京五輪が成功裏に閉幕し、その後でゾロゾロ膿が出てきたら却ってまずいだろう。
新疆ウィグル自治区のテロにしても、メディアへの暴行事件はあったものの、チベット騒乱の外国メディア締め出しによるバッシングの学習効果か、事件現場に一応は外国メディアを入れている。むしろビンラディンという西側の「共通の敵」の影をちらつかせて同情を誘おうという戦術さえ垣間見られるような。
その一方で、変なのが毎日:ギョーザ中毒 中国側、対日重視の姿勢アピール 【北京・浦松丈二】中国政府が冷凍ギョーザの中毒事件が中国国内でも起きていたことを日本側に伝えていたのは、事件解決に前向きに取り組み、対日関係を重視する姿勢の表れだ。
 中国当局は「中国での混入の可能性は極めて低い」と主張してきた。しかし、胡錦濤国家主席も参加した7月の北海道洞爺湖サミットの1週間前のタイミングに、中国側での毒物混入を疑わせる「不利な事実」を伝えてきた意味も大きい。
 ただ、中国にとって、国家を挙げて取り組む北京五輪の開幕直前に、日本側で捜査情報が明らかになったことは不愉快なはず。焦点である毒物の混入経路も絞り込めておらず、捜査協力を進めるうえで欠かせない日中双方の信頼関係を維持できるかどうかは不透明な情勢だ。

これじゃ、情報を漏らした日本政府が悪いだ。中国を慮って「不愉快なはず」には恐れ入りやだ。「浦松丈二」という名前、覚えておく価値ある。
その後、高村正彦外外相が「中国側から『捜査の過程で支障があるので今は公表しないでほしい』と言われた」(日経)と後出し釈明しているが、一体どんな支障があったのか説明してもらいたいものだ。そんなことあるわけないだろが。
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スカイ・クロラ The Sky Crawlers

skycrawlwes公式サイト森博嗣原作、押井守監督。普通に考えて「キルドレ」とは“Killed Children”の略あるいは合成語なのだろうか。「殺された子供たち」、というかあらかじめ存在しなかった子供たちとでもいうのか。
映像の雰囲気は昔読んだ村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に似てなくもないか。「世界の終り」は二次元的に交互に二つの世界が進行するけれど、「スカイ・クロラ」の場合は、もうひとつの世界は隠されていて見えないというか、でも絶対あるという雰囲気だけが伝わってくるというか。
キルドレは、空中戦で死なない限り永遠の命を、永遠の若さを与えられている。名前の由来と違うじゃないかという向きもあるかもしれないが、大体において死=永遠だ。主人公たちが20歳までに死んで輪廻転生を繰り返す三島由紀夫の「豊饒の海」に見られる永遠の若さへの渇望さえ思い起こさせる。死ぬときはいつも大空という約束された栄光の死なんて三島由紀夫が生きていてこの映画を観たら随喜の涙流して絶賛しそうな気もする。
たくさんのキルドレティーチャーという「大人」の敵側というかライバル社側のエースパイロットに殺される。しかし、殺されて死ぬシーンというか死体は映らない。冒頭の戦闘で、血しぶきらしき描写はあるが。陸上に墜落しても死体はなぜか映らない。最後の大決戦の時も、爆撃機の機銃掃射士が被弾したはずだが、まるで撃たれるやディリートされたかのように映像から瞬間的に消えたように思えた。
つまり、この世界自体がまるで会社同士のオンラインゲーム内にあるわけで、しかもゲーム自体が自生していて再生する。大体主舞台の前線基地にしても、小規模で大爆撃に遭って使い物にならないくらい破壊されてしかるべきなのに、まるで何事もなかったかのように再生されている。ティーチャーに撃墜された同僚は読売新聞を折り畳む癖もそっくりにいつの間にか再生されている。そして、主人公の函南優一もエンドロールの後に再生されるようなのだが。
現実を背景にして見れば、実現された「完全な平和」とは戦後日本そのものを表しているように思え、絶対に撃墜できないティーチャーってアメリカのことなんだろう、ということになってしまう。年を取らない少年たちはダグラス・マッカーサーの「日本人の精神年齢が12歳程度」という失言ぽい発言とどこかで結びついているようでもある。
最後にティーチャー撃墜の希望を賭ける優一は、戦時中の特攻隊の再生で、繰り返し繰り返し反米感情が高まりながらも「完全な平和」が保たれている退屈な秩序の破壊・・・つまり、まあそういうことだろうか。赤木智弘氏の「希望は戦争」ともどこか共鳴している趣がある。一生フリーターのままで終えそうな人生に対する不安というのは永遠に年を取らない少年たちが抱えているものと重ならないか。
ところで、あの読売新聞、妙に見出しまでがリアル。しかも、別のシーンで「THE DAILY YOMIURI」まで登場させている。さすがにテレビは日本テレビじゃなかったが、いくら読売グループの製作とはいえ、度が過ぎる。
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