スカイ・クロラ The Sky Crawlers

skycrawlwes公式サイト森博嗣原作、押井守監督。普通に考えて「キルドレ」とは“Killed Children”の略あるいは合成語なのだろうか。「殺された子供たち」、というかあらかじめ存在しなかった子供たちとでもいうのか。
映像の雰囲気は昔読んだ村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に似てなくもないか。「世界の終り」は二次元的に交互に二つの世界が進行するけれど、「スカイ・クロラ」の場合は、もうひとつの世界は隠されていて見えないというか、でも絶対あるという雰囲気だけが伝わってくるというか。
キルドレは、空中戦で死なない限り永遠の命を、永遠の若さを与えられている。名前の由来と違うじゃないかという向きもあるかもしれないが、大体において死=永遠だ。主人公たちが20歳までに死んで輪廻転生を繰り返す三島由紀夫の「豊饒の海」に見られる永遠の若さへの渇望さえ思い起こさせる。死ぬときはいつも大空という約束された栄光の死なんて三島由紀夫が生きていてこの映画を観たら随喜の涙流して絶賛しそうな気もする。
たくさんのキルドレティーチャーという「大人」の敵側というかライバル社側のエースパイロットに殺される。しかし、殺されて死ぬシーンというか死体は映らない。冒頭の戦闘で、血しぶきらしき描写はあるが。陸上に墜落しても死体はなぜか映らない。最後の大決戦の時も、爆撃機の機銃掃射士が被弾したはずだが、まるで撃たれるやディリートされたかのように映像から瞬間的に消えたように思えた。
つまり、この世界自体がまるで会社同士のオンラインゲーム内にあるわけで、しかもゲーム自体が自生していて再生する。大体主舞台の前線基地にしても、小規模で大爆撃に遭って使い物にならないくらい破壊されてしかるべきなのに、まるで何事もなかったかのように再生されている。ティーチャーに撃墜された同僚は読売新聞を折り畳む癖もそっくりにいつの間にか再生されている。そして、主人公の函南優一もエンドロールの後に再生されるようなのだが。
現実を背景にして見れば、実現された「完全な平和」とは戦後日本そのものを表しているように思え、絶対に撃墜できないティーチャーってアメリカのことなんだろう、ということになってしまう。年を取らない少年たちはダグラス・マッカーサーの「日本人の精神年齢が12歳程度」という失言ぽい発言とどこかで結びついているようでもある。
最後にティーチャー撃墜の希望を賭ける優一は、戦時中の特攻隊の再生で、繰り返し繰り返し反米感情が高まりながらも「完全な平和」が保たれている退屈な秩序の破壊・・・つまり、まあそういうことだろうか。赤木智弘氏の「希望は戦争」ともどこか共鳴している趣がある。一生フリーターのままで終えそうな人生に対する不安というのは永遠に年を取らない少年たちが抱えているものと重ならないか。
ところで、あの読売新聞、妙に見出しまでがリアル。しかも、別のシーンで「THE DAILY YOMIURI」まで登場させている。さすがにテレビは日本テレビじゃなかったが、いくら読売グループの製作とはいえ、度が過ぎる。
Clickで救えるblogがある⇒人気blogランキングにほんブログ村 映画ブログへ