アポトーシスは自殺じゃないだろ

遺伝子や細胞が自分自身生きるのが嫌になって自殺するなんて聞いたことない。
英語のWikipediaApoptosisにはsuicideなんて記述ないけれど、なぜか日本語のアポトーシスにはのっけから「細胞の自殺」なんて表現されている。もちろん、英語の文献にもcell suicideなんて表現あるけれど、大抵は“”付きで表現されていることが多く、あくまで例えだ。元々原義は枯葉の落葉とかいう意味なんだから、自殺に例えるのを好むのは、日本独特の文化的解釈なのだろうか。どうせ例えるなら、自己犠牲死、自爆テロ、特攻ではなかろうか。←新陳代謝の殆どはアポトーシスらしいからこれらも不適切か。
で、弾さんの言う実は本当の「完全自殺マニュアル」は、63億人一人の例外なくもっている。それも一人60兆コピーほど。我々には寿命がある。遺伝子(gene)は自殺するのだ(404 Blog Not Found:不完全自殺マニュアル)というのは、恐らくこの新陳代謝におけるアポトーシスのことを言っておられるのだと思う。
前にも書いたと思うけれど、生物学的知見は「例え」を逸脱して社会学に応用され易い。年間3万人の自殺者をアポトーシスに例えて、「社会の安定を保つための必要悪」なんて言う人が出て来るかもしれない。
弾さんの言うとおり、自殺は遺伝子ではなく意伝子(meme)の所業だ。意伝子の遺伝子との違いは、外部意伝子が容易に内部に侵入し、攻撃できることじゃなかろうか。言わば、トロイの木馬の如く本人の自覚なしに外部からテロリスト意伝子が侵入し、内部的に他殺する。内部意伝子が弱っている時に侵入を受け易い。
ちなみに自殺した三島由紀夫は「自分には無意識なんてない」と言っていた。つまり、本来の三島の内部意伝子は元々なく全て外注の外部から意伝子で成立していると言いたかったのかもしれない。三島が生きていた当時、意伝子という概念がなかったからそのような表現をせざるを得なかったのかもしれない。本当に三島が言いたかったのは、意伝子にとって本来、内部も外部もないということだろう。言葉は内部から発生したものではないから、自己など幻想だということだ。それを自覚した三島意伝子は内部と外部の壁を取っ払おうとしたと思われ、こういう場合、通常の自殺とすら言えない意志的自死とでも言うしかないのだろうか。
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