俺は、君のためにこそ死ににいく

tokko知覧特攻平和会館に行ったのはもう10年前くらいか。周囲は茶畑。この知覧の特攻基地に絡む映画としては高倉健の「ホタル」以来。今度は鳥濱トメさんを菩薩と仰った都知事さん総指揮・脚本、実はこれが石原慎太郎畢生のライフワークなのかもしれない。岸恵子様、お元気そうで何よりでございます。これは戦争を美化した作品ではなく、戦争に携わった人々の美しさの物語――ぐらいでいいかな?
映画で鉄道が出て来るので、そんなのあったけ、と調べたら1965年まで知覧駅ってあったんだ。そう、一昔前まで日本の隅々まで毛細血管のように鉄道が張り巡らされていたんだ。知覧駅は支線の終点らしい。日本の聖地への鉄道を廃線にするとは、これも敗戦後遺症か。靖国にはエリート臭さと同時に俗っぽさ、政治的鬱陶しさがあるが、知覧にはそんなものがなく、何か、からっと晴れ渡った青空の虚無のような生死の境の門のようなところがある。会館に展示されている隊員たちの辞世の手紙を読んでもそんな感じがした。
ブラックホールのような死の重力が圧倒する空間というのは、時間が濃密で純度を増すようだ。アインシュタインは累進課税を正当化するであるように、そうした時間ではカネの価値はほとんど無意味になっている。カネは外部との交換手段、外部への影響力行使の手段なのだが、もはや外部が意味をなさなくなるということは、精神が内へ内へと爆縮し、一秒一秒が濃密で長く純化され、それ自体としての価値の高騰が起きている世界。それはまた1年が恐ろしいほど長かったナイーブな子供時代への回帰でもある。三島由紀夫が10代へ回帰しようと「特攻」したのはそのような論理が働いたのだろう。
そのためか、この映画も意外とからっとしていた。「この戦争は負けでしょう」と言って怒られ、何度も帰還して死に損なって最後は離陸した途端、急上昇し過ぎて失速し、そのまんま基地内に墜落して自爆した人もいた。エンジントラブルのように見えるが、これ、やぶれかぶれの自殺だろう。最後の夜ということで、娘をあげる奇特な方もいた。
靖国の二本目の桜の木の下を再開場所に決めるとか、不思議に重く感じられず、シュール感すら漂うキレっぷり。でも、これが本当の死に直面した人間の姿で、愚かしさと賢さの区別すら無意味になってしまって実はリアルなんだろうけど。
とは言っても辟易する人が多いかもしれない。特攻発案者の切腹シーンは余計でうざい。「♪貴様と俺とは同期の桜」も、いい加減にしろ、の声が出るかもしれない。ホタル=魂=感傷的とかなんとか。
でも、そういう人が大河の戦国時代劇は平気で楽しむ、てこともある。「硫黄島からの手紙」はOKだが、これはちょっと、という向きもあるかもしれない。その違いは何なんだろう。多分、特殊な時空間効果で汗臭く愚かしいほどに濃縮された「われら」感が充溢していたからだろうか。
この映画かなり人気らしい。そういや、「戦争が希望」というフリーターの論考が反響を呼んだ。「戦争起これば人殺せる」という猟奇殺人もあったばっかだ。なんか戦争に救いを求める人が増えているような。戦争経済ならぬ戦争救済とか。
だけど待てど暮らせど戦争来ない。少なくとも栄光の戦争は「われら」にはなく爆縮した「俺」にしかないような。
Clickで救えるblogがある⇒人気blogランキングブログランキング・にほんブログ村へ