君のためなら千回でも

kite0英語タイトル:The Kite Runnerカーレド・ホッセイニ原作、マーク・フォースター監督。ソ連侵攻1年前の1978年のアフガニスタン・カブールから米同時多発テロ前年の2000年のカリフォルニアまでの物語。従ってそれ以後の更なる激動は当然なく、今となっては物足りない気がしないでもない。
悪く言えば、アメリカに逃げてしまったアフガンのエリート家族と逃げないで殺された下層階級の少年との友情と罪悪感の悔恨が混ざり合った物語。英語タイトルのRunnerは「逃亡者」も意味しているのだろうから邦題は誤解を与え易い。
kite1君のためなら千回でも」と言ったのは差別されているハザラ人の召使の息子ハッサンが、父親を雇っている裕福な家の子のアミールに対してだ。ハッサンはどんなに立場の悪い状況でも忠実な逃げない子だ。苛められるアミールの盾になっていて、アミールに裏切られてもハッサンは裏切らなかった。
同じ台詞を後年、アミールがハッサンの息子に対して吐く。しかし、そこは安全で逃げる必要のないカリフォルニアだ。
子供の頃、アミールは凧揚げ大会で勝ち、頼りなく思っていた謹厳な父親から初めて褒められる。この凧揚げ大会は相手の凧糸を切り合うという、戦闘機同士のドッグファイトのような戦闘的なものだ。が、これも実際にはハッサンの手助けによるものだ。アミールはハッサンに感謝の意思も示せず、どころか盗みの濡れ衣まで着せて自分の名誉を守ろうとする。
kite2アミールの自分勝手は、大人になっても直らない。祖国に戻っても相手の立場が理解できず、ただ自己満足的にハッサンの息子をアメリカに連れて行こうとするが、元いじめっ子のタリバン幹部に殴打される。いじめっ子がタリバンになっているという設定は意図的な感じがするが、その時もハッサンの息子に救われるのだから、もう救いようのない男だ。
陵辱を受けようとした女性を命がけでソ連兵から守ろうとした父親の自尊心はついに獲得できない。「自分を守れない人間は何も守れない」という父親の予感は的中した。
原作は自伝的小説なんだろうが、こんな人間が国連難民高等弁務官を務めているというのは、どうしたものだろう、とは思う。彼はまた特権的立場で自己満足的に償いをしているつもりなのだろうか。だとしたら、これはひどい世界だ。
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