脱原発が再稼働阻止と同一視され、核廃棄物は他人任せ
社民党の吉田忠智党首と又市征治幹事長は29日、脱原発発言を行っている小泉元首相とエネルギー政策を巡っておよそ45分間にわたって会談しました。
小泉元首相は、なぜ自分は脱原発に変わったかということの中身をお話になり、最終処分場問題、自然エネルギーと経済・雇用、原発ゼロに向けた連携・協力などについて幅広く意見交換を行いました。
また、「地震大国日本で、使用済み核燃料や高レベル廃棄物の最終処分場を作ることは国民の理解が得られない。原子力発電を続けていくこ とは無責任であり不可能だ」、「再生可能エネルギーというのは地産地消、非常に夢のある発電で雇用も生まれる」などと発言しました。
どのように原発ゼロを実現していくのかについては、「政府に脱原発に向けた政治決断を求めるには、世論に訴えるしかない」、「各政党・政治家それぞれが気概を持って声を上げて世論を喚起していけば、世論は必ずそうなる」、「それぞれの立場で各政党が脱原発に向けて努力すべきだ」、 「自分も主張を続けていく」などと発言し、確信を持ってお互いに頑張っていくことで一致しました。小泉元首相は最後に、「あきらめちゃだめだよ」、「『やればできる』は魔法の合い言葉だ」と強調して、会談は終わりました。
社民党の主張は原発即ゼロ=再稼働絶対駄目の筈だけれど、小泉純一郎元首相の頭の中では、どうやら脱原発=再稼働ゼロのようだ。「やればできる」なんてかつての土井たか子社会党委員長の「駄目なものは駄目」と同じノリだ。
意見の中身自体はどれも聞き飽きたようなものばかりだが、ここまで来ると、色々なバージョンがある筈の脱原発も収斂されて再稼働ゼロの国民運動になりかねない。
本来、自民党だって広い意味の脱原発の筈だが、だんだん日米安全保障条約の条文もまともに読んだことがない人がリードした安保闘争のようになりかねない。
大体、地層処分の安全性が問題で否定されるのなら、再稼働阻止しても核廃棄物が地上の施設に今後もずっと保管されたままになる。10万年後の安全と今の安全とを天秤にかければ、今の安全を優先されるべきなのは明らかだ。今のままだと今度また大地震が来たり、ミサイルでも打ちこまれれば、とんでもない災いが起きるリスクは高い。10万年後の安全どころじゃない。
大体、映画の「100,000年後の安全」は半分、思考実験のようなもので、言葉が変化し、危険な場所が分からないなんてのは噴飯物だ。単に10万年前のまだ言語が未発達で、それゆえに言語変化の激しい時代をそのまま未来に投射しただけ。別に小泉元首相が視察したフィンランドのオンカロの入口だけに注意看板があるのではない。色々な場所に情報が保管されるし、言語の変化も上書きによって絶えず更新される。人類が存続している限り。存続していなければ、そもそも注意すべき主体そのものがいないということだ。
このままでは地層処分も普天間基地問題と同じように議論だけされて何も動かないままになりそう。「県外」とゴネるのと同じように「海外」とゴネるのだろうか。「トイレなきマンション」で、マンションだけ自分の敷地に建て、トイレだけは他人の敷地に建てるというのはいかにも身勝手で、結局日本人は日本以外はどうなってもいいという島国根性がずっと無意識レベルで根付いているのだろう。
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