マネーは国際化するほど国籍性が強まる
「実は通貨を通貨たらしめているのは、政府ではない」(by弾さん)のような、岩井克人の貨幣論の劣化コピーのようなことを仰る方もいるわけですが、全く逆でしょう。
金本位制を成立させていたのは、貝殻や石玉から始まり辿り着いた究極の国際共同幻想としてのゴールドの価値なんですね。この幻想には国籍はない。
だからこそ、国際間の決済手段として通用した。1971年までは、政府ではなく、国際共同幻想としてのゴールドが最終保証していたのであって、政府のやることは兌換レートを決めることだけだった。
では、1971年以降はどうか。ゴールドと交換してもらえなかったら、米ドルはどうして保証してもらえるのか。それはもう、法貨(legal tender)の発行者としての国家しかないんですよ。
故にマネーの価値を保証する根拠⇒マネーは法貨である⇒法貨は政府が保証している⇒政府の保証の根拠=最終保証物(昔はゴールド)は国家そのものだ⇒国家を保証するのは、領土、人口、経済力、軍事力の総体である国力だ⇒国力が法貨の価値を保証する。
国力が外国に影響を及ぼすと、国際信用が生まれる。故に米ドルは国際基軸通貨として通用している。
だから、
>(貨幣の交換価値の)共同幻想は、(国境の)壁が低ければ低いほど強くなるものなのだから。
というのは全く逆で国境の壁、国籍の重さが大きければ大きいほど交換価値の共同幻想は高まる。
分かりやすくするために言葉の場合を考えよう。エスペラントがなぜ国際言語としていまだに通用していないのは、国籍を持っていないからだ。国際性は実は国籍で保証されている。
>「国籍が存在する」という共同幻想
国籍は明らかに共同幻想ではありませんね。通貨の交換可能性が共同幻想なんです。
>ユーロ円債の国籍は何なのか?
ユーロ円債は債券であって、法貨ではない。発行者が保証しており、円はその交換法貨としての役割しか担っていない。
>日本は米国債を大量に「保有」しているがこれの国籍はアメリカなのか?
もちろん、アメリカ政府が発行しているのだからアメリカ国籍に決まってまんがな。
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